見出し画像

加速する「二元論」

ユウヤです。みなさん戦ってますか?

この前記事を書いたあとに新たな疑問が湧いてきました。今回はそれについて語らせてください。

その記事の内容を要約すると三択を扱えるようになったことで人間に進化したんじゃないかという話です。しかしここで新たな問題にぶつかりました。
それは二元論です。他にも極論や善悪などと言ったように人って物事を2つに分けて考えがちじゃないですか?日本に限らず世界中で判官贔屓な感情があったり、勧善懲悪なストーリーが人気になったりしてますよね。三択こそが人間の力なのに二択が大きな影響を持っているのは何故なんだろうと疑問に感じました。もし良かったら一緒に考えていきましょう。

二択が人気なのは疑いの余地がないと思います。
昔から物語の世界ではわかりやすい悪者がいて、それを正義のヒーローがやっつけてチャンチャンとなりハッピーエンドって作品が人気ですよね。映画や漫画、アニメなどの歴史が浅いコンテンツにおいて高い売上、知名度を誇る作品では主流ですし、昔に流行った文学作品なんかもそうですよね。日本では江戸時代に人気の講談は悪者の徳川家康に立ち向かう正義の真田幸村(真田幸村負けてますけど)です。中国なら三国志演義や水滸伝が正に悪者と正義のヒーローの戦いです。西欧のイギリスでも悪者を懲らしめるロビンフッドが長く愛されてます。

物語の世界から離れて見ても世の中って二択で溢れてませんか?スポーツや政治なんか良いか悪いかしかないように感じます。芸能人の不祥事や事故事件に対しての反応なんかもそういうように見受けられます。

声を上げることの難しさ
何故三択の力があるのに二択になってしまうのか。そこには声を上げることの難しさがあると思います。
何かしらの事柄に対して自分の思うことや考えなどを誰かに伝えたいと思ったとします。でもそれを三択にしたり、1もしくは2以外の1でも2でもない第3の選択肢にしたりしても伝わりにくいですよね。どうしても伝えたいが先行してしまうと思うんです。そうするとより正確に伝えられるように三択や第3の選択肢にするよりも単純化してでも発信しようとなってしまうのではないかと考えます。

すくい上げることができる限界
発信する側について触れましたが、発信される側にも単純化してしまう理由があると思います。
意見や考えをすくい上げる人からしても三択や第3の選択肢をすくい上げることは単純化された二択をすくい上げるより遥かに困難です。
ある問題に対して対策を提案したとして、賛成か反対なら反映することを容易です。しかし賛成と反対のどちらでもないと言った第3の声をどう反映させれば良いか非常に難しいです。発信してもらう側としてはすくい上げやすい単純化を望むと考えます。

救える人が増えると救えない人も増える?
根本の原因というか一番根に張ってる問題は人の多さがあると思います。昔は数十人に伝えるために声を上げれば良かった、昔は数十人の意見をすくい上げれば良かった。しかし今は途方もない数の人に対して声を上げなければならないし、途方もない数の意見をすくい上げなければならない。これが単純化をまねいているのでないでしょうか。
数十人ならば単純化しなくても全員にわかるまで繰り返し語りかけることが可能です。数十人ならば全員の意見を理解できるまで徹底的に聞くことが可能です。それができなくなるほどコミュニティーに属する人の数が増えてしまったんです。

最後に
二択から三択と扱える選択肢が増えたことで繁栄を手にした人間ですが、今世の中は選択肢が三択から二択に減っているように感じられます。
増えたことで繁栄したということは減ることで衰退してしまうのではないでしょうか。衰退したから減ったと言うこともできるかもしれませんが。
このまま一択まで選択肢が減るような時が来たらそれは種の存続に関わるほどの事態が起きるかも…なんて怖くなります。
三択の力を今の世界に活かすためにはどうしたらいいのかそれをこれから私は考えて行きたいと思います。

是非次も呼んでください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?