沼の上に建つ社宅
★この話は、2020年5月【竹書房 怪談マンスリーコンテスト】の最終候補作『沼の上に建つ社宅の話』に加筆したものです。
――もうずいぶん前の話です。
短い間でしたが、K市郊外の、古い社宅に住んでいたことがありました。
築四十年近い集合住宅の外観は廃墟のようで、空き部屋も多い。
とはいえ、昭和っぽいレトロな2DKが駐車場込み月額五千円。破格です。
浮いた家賃分を貯金に回せる――預金残高がほぼゼロだった当時のわたしに、選択の余地はありませんでした。
軽自動車に身のまわりの物だけを積んだ引っ越しは、すぐに終わりました。
改めて、建物の外観を見あげてみると――。
まあ、たしかに汚い。
ひび割れた外壁は、長期間、修復も洗浄もされていないのがあきらかで、黒く煤けていました。
雨水が垂れたようなシミは、黒いカビが生えているように見えるし。
……いや、実際にカビかも。
おまけに、戦後に沼を埋め立てた土地は未だに少しずつ沈んでいるらしく、地面にはあちこち亀裂が走っていて、それを見ていると、だんだん建物じたいも沈んで傾いているような気がしてきたり……。
古くても、明るい雰囲気の家や建物はたくさんあります。
でも、この社宅は全体がどんよりとしていて、うち捨てられた感がはなはだしく、古いというだけでは説明のつかない、不穏な何かがありました。
よどんだ空気が、どこにも行けないで溜まっている――。
何と言えばいいのか、空気が重すぎて、その重みで他所へ流れることができずに、建物に覆い被さってしまっているみたいな感じ。
(まあ、永久に住むわけじゃないし……それに今日は曇りだし、どんよりしてるのは天気のせいもあるよね……)
少しの辛抱だと、気のせいだと自分に言い聞かせ、わたしは新しい生活を始めたのでした。
ひと月も経たないうちに、気味の悪い夢を見るようになりました。
夕暮れの焼け野原に、一人でぽつんと立っている。やがて全身の肉がドロドロ溶け落ち、その肉に夥しい数の蛆がたかってくる――そんな不気味な夢でした。
体力には自信があったはずなのに、常に身体が酷くだるくて、頭もぼんやり。
どうにも耐えられなくなって、知りあいの開業医にお願いし、しばらくのあいだ、毎日点滴をしてもらっていました。
その医者が言うには――。
「社宅、出たほうがいいよ。場所が悪すぎる。あそこ、以前は沼だったんだよね。ここらへんの古い住人はみんな知ってるけど、ずっと昔から、亡くなった人の遺体を捨てていたんだ。無縁仏とか、病気で死んだ人とか。戦争のときなんか死体の捨て場になってて、それこそ何百人、何千人も――」
「ええ!?」
「ま、そんな曰くのある土地なんで、値段なんてタダ同然だったはずなんだけど。当時の社長がさらに買い叩いて、社宅を建てたんだよね」
「……その沼に捨てられた遺体って、ちゃんと供養されたんでしょうか?」
「どうだろうねぇ? 全部を回収するのは無理だったと思うよ。すごい数だろうし。たぶん……底のほうに沈んでいる遺体は、そのまま埋め立てたんじゃないかな」
「ええ~……ひどい……」
「ひどい話だよね。そこに住む社員のことなんて、まるで考えてないんだよ」
聞いていると、怒りよりも先に鳥肌が立ってきました。
その話を聞いた数日後。
妹が旅行に行くと言うので、彼女が飼っていた猫を預かりました。
その猫はふてぶてしく、環境が少々変わったくらいでは動じない猫らしくない猫でしたが、世話は楽です。
一週間の約束で預かったのですが、なぜか部屋に連れてきてケージを開けても、外に出ようとしません。
神経質になっているのかな、と思い、そのまま好きにさせていました。
ところが――。
その猫が夜中に、狂ったように部屋のなかを走り回るのです。
しばらくじっとしていると思ったら、いきなり走り回る、の繰り返しで、それは明け方まで続きました。
しっぽの毛が逆立ちっぱなしで、何かに追いかけられているのか? と思うような動き方でした。
朝、ケージのなかでぐったりとしている猫を見たわたしは、そのとき初めて、「この社宅、なんか、おかしい」と、はっきりと感じました。
でも、何がおかしいのか、言葉にすることができません。
仕方なく、その日の仕事が終わってから、車で片道一時間ほどの実家へ猫を連れていき、事情を話して預かってもらったのでした。
その翌日の、真夜中のこと。
玄関のドアノブが、ガチャガチャと鳴る音で眼を覚ましました。
以前も同じことがあったので、
「また誰か、酔っぱらって部屋を間違えてるんだな……えらい迷惑だ」
と放っておいたのですが、ドアノブは執拗に鳴り続けます。
仕方なく起きて、玄関の灯りを点けた途端に、音が止みました。
耳をそばだててみても、何も音がしない。
安心して布団に入った途端に、また「ガチャガチャ、ガチャガチャガチャガチャ」
イラっとして玄関に行くと、音が止む。
「どなたですかっ!?」
怖さよりも安眠を妨げられた怒りのほうが強く、自然に声の調子もきつくなりました。ドアの外からはたしかに、何者かの気配がします。
苛立ちながら、しばらく立ち尽くしていると、なんとなく外の気配が消えたような。
(外の人、部屋を間違えてたことに気がついた……?)
けれど、足音がしません。
ここが自分の部屋ではないと気づいて立ち去ったのであれば、足音がするはず。それが聞こえないということは、まだ、玄関の前にいる――?
なぜか、人間ではない何かが、息を詰めてドアの外に立っている様子が脳裏に浮かび、全身に「ぞぞぞ」と鳥肌が拡がり――。
わたしは足音をさせないよう、そっと布団に戻ると、怯えながら夜明けを待ちました。
明るくなってから、恐る恐る玄関ドアを開けてみました。
ふわりと焼き肉屋(?)みたいな臭いがして、その臭いの塊が、ドアの隙間から部屋に入り込んだように感じたのは、気のせいだったと思うのですが。
コンクリートの踊り場に、泥だらけの足跡が残っていました。男性用の作業靴、もしくはトレッキングシューズ。
ここ数日は晴天だったので、湿った泥のついた足跡じたい不自然なのですが、もっと変なのは、それがどこにも続いていないこと。
うちの玄関の前にだけあって、上の階段にも、階下にも、それらしき靴跡は見当たりません。
一体、どうなっているのか――。
それから日にちを置かずに社宅を退去し、実家に戻ったのですが、何となく、手遅れ……のような気がして仕方がありませんでした。
そして、その予感は、現実になるのです。
⇒【憑いてきた……?】に続く
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