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プロローグ

杜の都、仙台。――
その中心部青葉区と北部泉区との境に位置する小高い丘の上に「不可能を可能に、夢を現実に」する学習塾があるという。
特に宣伝することもなくこれといった看板もないので、その存在を知る者は隣近所でさえ数は少なく、教室の周りを取り囲む幾種もの高木のせいで、下からはその様子が全く窺えない。
唯一、その全貌を知り得たのは、上空を我がもの顔で飛んでいるカラスくらいのものだった。
教室までは100メートルほどのなだらかな坂道を上っていかなくてはならないのだが、私道のためにそこを上ってくる者はたまに来る郵便配達員くらいで、あとは誰一人近付くことのない、まさにそこは市街の死角に潜む一軒家だった。
時折、近所の子供たちが怖いもの見たさと冒険心から上ってくることもあったが、教室が見えるくらいのところまで辿り着くと、その静けさと冷たい空気に恐れ慄き、お互い顔を見合わせ、何も言わずに引き返していくのが常だった。
4月に入っても尚、この辺りは桜の花が咲くにはまだまだ風が冷たく、日中こそ春の陽気を感じさせるものの、夜となるとぐっと冷え込むことも度々あった。
そんなある夜のことだった。――
一通りの仕事を片付けた俺は、一服するために教室の外に出た。
予想外の冷気が背筋を襲い一瞬にして体中の筋肉を収縮させる。
目の前に広がる暗闇からは物音一つしない。
俺は上着のポケットから煙草の箱を取り出し、そこから1本抜き取ってそっと火を点けた。
一煙吐いて夜空を見上げると、月もなく星もないただ真っ黒な天空が、俺と教室、そして丘全体をすっぽりと包み込んでいる。
季節外れの粉雪が、ちらりちらりと舞い降りていた。
すると、上空の遥か彼方で、一粒の小さな光が瞬いた。
嫌な予感とまではいかなくとも異状を察した俺は、一瞬身構えた。
案の定、その光はものすごい勢いでこちらに接近し目の前で弾けたかと思うと、凄まじい雷光と青白い炎の中から巨大な影がぬうっと姿を現した。――
「よう、タムラ」
地の底から湧き出るような太い声が、闇夜に轟く。
が、俺は落ち着いていた。
「これは、これは、ゼウス様。ご無沙汰しておりました」
「元気そうだな」
「はい、お蔭様で。ゼウス様もお変わりなく」
「まぁな。ふん、さすがに2度目ともなると驚きもせんか」
「ははぁ、それなりの心構えはできておりましたので」
「そうか」
ギリシア神話の最高神ゼウスは、雷を武器とし、ありとあらゆる気象を司る天空の神である。ローマ神話ではユピテル(Jupiter)、英語読みでジュピター(=「木星」の意)と同一視される。
「そうだ。アル男とブリ吉は元気にやっておりましたか」
「あぁ、お蔭さんでな。お前には本当に感謝しておる」
数年前のことだった。――
一眼巨人のアルゲス(=アル男)と百腕巨人のブリアレオス(=ブリ吉)は、幼い頃からその不気味な容姿を父親から嫌われ、大地の奥深くへと幽閉されていた。
食事こそ、我が子を愛してやまない母親が夫の目を盗んで運び与えていたが、それも一日のほんの一時であり、それ以外彼らは誰とも接することがなかった。
暗い地下で幼い子供たちができることといえば、泣く、わめく、食べる、排泄する、寝る、たまに穴を掘ったり石を砕いたりして遊ぶ、といった感じだった。
見兼ねたゼウスは、彼らが15歳のときに地下から彼らを救い出し、保護した。
そして、まともな教育を受けずに育った彼らに、周りとのコミュニケーションを図ることができるようにするために「せめて英語だけでも」ということで、この俺にその指導を託したのだ。
「いや、でもねぇ、彼らは本当によく頑張りましたよ。短期間であそこまで伸びるとは、正直私も思いませんでしたから」
「まぁ、それはお前の指導がよかったからではないのか」
「いやいやいやいや、そんなことはありませんよ」
「だよな」
――言うなぁ、このおっさん。
「で、今回は?」
「うむ。わしが今期より学長を務めておるオリュムポス大学の附属中学校に、どうしようもない落ちこぼれどもが5名ほどおってな」
「ほぉ、誰でしょう?」
「まずは、恥ずかしながら、わしの息子だ」
「というと、ヘラクレス、ですか?」
「さよう」
ギリシア神話最大の英雄ヘラクレスは、ゼウスとその愛人アルクメネの子である。大地を持ち上げられるほどの超人的なパワーを持つが、それがかえって仇となり、彼は犯してはいけない罪を犯してしまう。以後、彼は償いの人生を歩んでいくことになる。
「でも、ヘラクレスといえば、次期英雄候補じゃないですか」
「まぁ、そうなのだが、今のままでは英雄どころか高校生にもなれん。腕力だけは桁外れなのだが、どうも学力が、……。それに少々短気なところがあって、アテナも手を焼いておる」
「おぉ、アテナ様。知恵と戦いの女神ですね」
「さよう。アテナは今、我がオリュムポス大学附属中学校の校長をしておる」
アテナは、ゼウスと思慮の女神メティスの子である。ローマ神話ではミネルウァ(Minerva)、英語読みでミナーヴァと同一視される。が、ゼウスは、「メティスから生まれてくる子はゼウスに代わる支配者になる」と予言されていたため、自分の子を身ごもった妻メティスを呑み込んでしまう。やがて、ゼウスの頭から甲冑を身に付け、槍と盾を持って生まれてきたのがアテナである。その後、数々の浮気と不倫を繰り返し、多くの子孫を残したゼウスだが、中でもアテナはゼウスに最も愛された娘だと言われている。
「校長? じゃあ、ちょっと、ご挨拶に行かないと」
「挨拶だぁ? 人間の分際で神に会おうとは100年早いわ!」
――はい、怒られたー。
「で、お次は?」
「これがまた厄介な奴なのだが、……メドゥサだ」
「ひっ、メドゥサ。あのゴルゴン3姉妹の」
「うむ。姉2人と一緒に暮らしておるようだが、どうにもこうにも生活態度が悪すぎる」
メドゥサ(=メドりん)は、髪の毛1本1本が生きた蛇でできている怪物ゴルゴン3姉妹の三女で、姉2人とは違い彼女だけが不老不死ではない。目からは石化光線を発し、見たものを石に変える能力を持つ。
「で、お次は?」
「うむ。パンドラだ」
「パンドラ! 人類初の女性ですね」
「さよう。アレ以来、『何でも開けるの恐怖症』を患って苦しんでいるそうだ。ま、傍から見るとそんなふうには見えないのだが、……」
パンドラは、火と鍛冶の神ヘパイストスによって泥から作られた人類初の女性である。好奇心から、開けてはいけない箱を開けてしまい、それまで幸せだったこの世の中に、悲しみや苦しみ、病気、嫉み、恨み、憎しみなど、ありとあらゆる不幸をもたらしたという黒歴史を持つ。
「で、お次は?」
「うむ。イアソンだ」
「イアソン? あぁ、あの冒険好きか」
「さよう。お宝探しに夢中で勉強に集中できないようだ。リーダーシップをとる素質は十分にあるし、ヘラクレス同様、次期英雄候補なのだが、どうも自分勝手というか強引に事を運ぶところがあってな、……」
イアソン(=ソン太)は、後に「黄金羊の毛皮」を求めて船旅に出るのだが、その協力者と乗組員を集めるのに四苦八苦していた。
「で、あと1人ですよね」
「うむ。最後の1人は、オルペウス」
「オルペウス? あぁ、はい、はい、あのやたら陰気な奴ですよね」
「まぁな。アテナの話では、昔は明るかったのだが、いつからか急に大人しくなって、最近では自殺をほのめかす言動も多々あるそうだ」
オルペウス(=オルっぺ)は、竪琴の名手で、音楽的才能はギリシア神話一である。ある時から冥界(=死者の国)に関心を示すようになったが、彼の本心を知る者は誰一人いない。もしかしたら、人知れず何かを企んでいるのかもしれない。
「てか、みんなワケアリじゃないですか」
「だからわざわざ、お前に頼みに来たんだろーがっ!」
――はい、また怒られたー。
「わかりました。で、……今回の報酬は?」
「そうだな、何がいい? 何でもいいぞ」
「よっ、さすが全知全能の神! じゃあ、アレ、……ネクタルを」
「な、なにぃぃぃいいい! 人間の分際で神酒をよこせと言うのか」
ネクタルは、人間が口にすると永遠の命を得られるという神酒で、果汁飲料ネクターの語源である。
「だって、『何でもいいぞ』っておっしゃるから、……」
「チッ、……しゃーないな。その代わり、オリュムポス大学の附属高校に全員、進学させること、……これが条件だ」
「承知いたしました」
「それからもう1つ頼みがあるのだが、何せ皆家が遠いものでな、……できれば、家庭教師ということで家に来てもらいたいのだ」
「その辺は、お安いご用で。ただ、年に数回、講習会を開きますので、その際は教室で集団指導ということでよろしいですか?」
「うむ。わかった」
「教材は今学校で使用しているテキストと問題集をそのまま使いますので、特に新しく用意する必要はございません」
「うむ」
「あ、あと、月謝は毎月ご指定の口座から引落しとなりますので」
「はぁ? お前なぁ、わしから金をとるつもりか?」
「え、えぇ、まぁ、ウチも商売ですので。ええとですねぇ、こちらの口座振替依頼書に預金者のお名前をですねぇ」
「じゃな、頼んだぞっ!」
「え、えっ? ちょっと、ちょっと、まだ話が、……てか、いねーし」
かくして俺は、半強制的に神々の子供たちを預かることになったのだ。
――ヘラクレス、メドりん、パンドラ、ソン太に、……あと、誰だっけ。あ、オルっぺか。何だかよくわからんが、「不可能を可能に、夢を現実に」だ。おーし、やったるでぇぇぇえええ!
こうして俺のハートに火が点いた。
ふと、気付くと、夜が明けていた。
どこからともなく1羽のカラスが飛んできて、目の前の白樺の木の枝に止まった。
鋭い漆黒のくちばしをこちらに向けて、じっと俺の目を見つめている。
まるで「タムラよ、お前ならできる」と言わんばかりに。――

アホー

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