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自分のタイムで歩く

憧れるものが変わった。子供の頃はなぜかバリキャリな感じに憧れていた。表参道キャリアウーマンだった時期があるので、ある意味夢は一度叶えたのかもしれない。
最初は抵抗の強かった今の自分の働き方も認められているし、今後どういう人になりたいかなと考えた時に想像する職業というか生き方も変わった。
昔の自分やある人が美談として語るようなことを、全然良く思わなくなった。
今の自分は、人からこう見られたら変だからやめようとかいうタイプの人の目を気にすることはかなり減った。仕事では自分以外ができることは周りの人がやってくれそうだったらやってもらうようになった。
仕事や家事に対して完璧至上主義だったけどそれは医者に「完璧でなくて完全です。藤井聡太は完璧な棋士だけど、彼は野球はうまくないから、完全ではない。彼が素振りをしていたら無駄。逆に大谷翔平も完璧な野球選手だけど、完璧な棋士ではないから完全ではない」と言われて、私は完全至上主義だったことを知り、完全を求めるのはやめた。今の仕事は、実は仕事内容の幅が広くて、同じ職種だけど得意分野が違う人というのがはっきりわかって面白い。自分にとっての苦手な分野が得意な人がいたら、自分は他の得意分野を頑張ろうと思う。完全は目指さない。ルーティンワークも多いが、それとはまた別に仕事内容に幅があるから意外と飽きずに済んでいるのかもしれない。そして、自分が得意な分野でも完全は目指さない。自分はそんなに力量がない、とやっと気づいたからだ。これは「自分は」というのは少し間違っていて、「すべての人間は」に置き換えるべきかもしれない。”自分が”ミスを全くせず求められているものをつくれないのではなく、人間みなそうなのだと思う。だから仕事ではダブルチェックをしたり、上司など何人も確認する人・決済する人が存在するのだろう。組織でなく個人で働いていても、受注している以上は同様かと思う。もし個人だけでなにかをつくっているのだとしたら、完全を目指していたらたぶん一生作品は世に出せない。

自分と他人の区別も、前よりはつくようになった。自分は自分のことしかコントロールできない。自分のことはコントロールできるのかと思ったらちょっと楽しいよね。そうして最近は自分の人生という車のハンドルを握っている。人生ゲームって車に乗ってるよね、あれってそういうことだったのか。
まわりで人が落ち込んでいても、励ますことはできても治してあげることなどできないし、自分の体調とは関係ない。相手の問題に介入しすぎたり、共感しすぎて落ち込んだりしていたことがある。

当たり前すぎることなのだけれど、20代前半にされてきた「若い子」という扱いが、さすがになくなってきた。嬉しいことだ。若いのが嫌だったわけではないし、実際に若かった。でも若いから若いことを求められているみたいで、当時は嫌だった。今は、ただ若いとは言えない年齢になり(自分が年老いたとかは思っていない)、いい意味でちゃんと生きていろんな経験を重ねて自分が形成されているなあと思う。年相応でありたいし、誰かの意見に迎合することなく、自分の考えを持っていたい。それが人の意見に共鳴することはあるだろう。何かに出会い、思うことはタイミングだと思っている。たまたま手に取った本との出会い、なんとなく行ってみた店での出会い、積読してあった本が急に読めるようになるのも、縁、そしてタイミングだと思う。自分のタイムで歩く。タイム感の良い人生を。

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