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詩って、けっきょくなんなのさ。(3)

くりこさんとの共同マガジン「ペチカ」。くりこさんが投げたボールをキャッチして、次はわたしが書く版です。前回に引き続き、詩についてじぶんなりに咀嚼して、くりこさんの疑問に答えたいと思います。
くりこさんが書いてくれたノートがこちらです。

そう、先月、くりこさん含むほぼ日の塾の同期と、横浜美術館で行われた最果タヒさんの展示を観たんです。宙ぶらりんになった言葉たちは、くるくると回ったり、ぼんやりと光っていたりして、それは詩の断片のようでもあるし、詩になりきれていない手前の言葉の赤ちゃんみたいに見えました。詩はインスタレーション(空間表現)になるんだね、その場に、この世界に存在していいんだね、って思える、素敵な展示でした。


たしかに詩は小学校の教科書でかならずと言っていいほど出てくるし、詩を書いてみよう、みたいな授業もあった気がする(あんまり覚えてない)。そこで先生に上手だとか褒められたりすると、「あいつポエマーなんだぜ」、みたいな雰囲気になって、まるで魔女狩りのようにひやかしを受ける。
えっとね、詩を英語に訳すと「poem」なので、詩もポエムも意味はおんなじなんです(当たり前か)。それでも、ポエムを書いてるなんていうと、中二病だって言われたりする。そういった幼い頃の記憶が積み重なって、多くの人は詩やポエムという言葉に対してネガティブなイメージを持っているのかもしれません。

そんなイメージを持っているのに、くりこさんは「詩を書いてみたい」と言ってくれました。詩は生きているので、多分、すっごくよろこんだんじゃないかな。

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えっと、すごく脱線しちゃったけれど、くりこさんの疑問「どこからが詩で、どこからがそれ以外なのか」について。わたしなりの解釈でいうと、「じぶんの心の中にあるものを率直に吐き出す言葉」が詩だと、わたしは思います。はい?って感じよね。もっと端的にいうと、「作者の気持ちがそのまま言葉として扱われる」のが詩、だと思うのです。


例えば、小説と詩を比べてみる。小説には物語があって、登場人物がいる。そこに作者が出てくる作品はあまりないような気がしていて。(ヒッチコックみたいな小説家、いないと思うのよね)
それでいうと、学生時代の国語のテストで、「この時の作者の気持ちを答えよ」みたいなやつ、あったでしょ。それが近代小説とかで、なんなら純文学で、夏目漱石の「こころ」とかで。そんな風にして、作者の思いを代弁してくれるのは、その物語の世界であり、その世界の登場人物なんですよね。


で、で、例えば広告コピーと詩を比べてみる。くりこさんがいう通り、広告コピーは問題を解決するためのことばです。私たちコピーライターは、クライアントの、もしくは生活者の中に潜む問題を見つけて、その問題を解決するためのことばを探し、生みだすのが仕事です。

先ほども述べましたが、詩は「じぶんの心の中にあるものを率直に吐き出す言葉」であり、「作者の気持ちがそのまま言葉として扱われる」。そういう意味でいえば、広告コピーとは、正反対の位置にあると言っても過言ではありません。
以前、くりこさんが例に挙げてくれた、一倉宏さんというコピーライターさんのコピー。じつは、こんなコピーもあります。


この駅で君と待ち合わせて

携帯電話が発明されて メールが発明されて 人間たちは
携帯電話の鳴らない メールの着信しない さみしさ を
発明してしまったんだね すこしまえ 留守番電話が発明されて
用件のない日の さみしさ が発明されたように
郵便さえ 手紙の届かない さみしさ の発明だったかもしれない
だから むかしがよかった というのではなく こうして
この駅で君と待ち合わせて いることが
僕は好きだ それはきっと 変わらない 誰だって
こうして 現れるひとを待つことは 現れるひとのいることは
ただむかしなら 10分でも 20分でも へいきだった
いまは 携帯電話のつながらない 心配 も 発明されてしまったから
どうしたのかな まだ電車のなか なのだろう と思いつつ
待っている 変わらない たとえ何が発明されたって もうすぐ
現れる君を待っている この人ごみに 君を探す リアルな時間が
僕は好きだ ちょっと遅れて ちょっと心配して でも現れる
きっとすぐに駆けてくる その確かさが 手をのばせば
さわれる君の 手をとって あるきだす あれこれ迷う
君の買いもの 君の気にいる そのシャツの そのてざわりや
えりのかたち そういうことの ひとつひとつが
かけがえのない 消去されない まいにちになる 目の前にある
てざわりのある 時間の ひとこまひとこまが 誰だって 欲しいんだ
ほんとうは だから こうして この駅で
(……それにしても 遅いな)


このコピーは、ユナイテッドアローズというアパレル会社が持つブランド「グリーンレーベルリラクシング」が品川駅構内にオープンしたことを打ち出す広告です。駅の中で彼女と待ち合わせている、デート前の男の子。彼の悶々と考えていることばは、いっけん詩のように思えますが、一倉宏さんはこのコピーを読んだ人が「洋服を買いに行きたくなってほしい」と考えて書いたものです。
これは、詩のようで、詩ではありません。なぜかというと、この文章には、作者である一倉宏さんの思いや胸の内はわからないからです。
コピーライターはあくまでクロコです。クライアントの気持ち、もしくは社会に向けて発信することばを、名前を出さずに代弁します。そこは、やっぱり詩と違うのかな。


でも、でもね。詩と、それ以外の言葉って、あくまでアウトプットの仕方が違うだけで、「書いたひとの経験や考え」が根っこにないと、ものって書くに書けないと思うんです。小説にしろ、短歌にしろ、広告コピーにしろ。
だから、えーっと、えーっとね。いつもこういうのを書く時、だんだん話題がそれてしまうのがわたしの悪いところなんだけれど。

ズバリ、詩と詩ではないものの違いは、「じぶん」が前に出てくるかどうか。わたしはそうやって、区別しています。

とは言っても、「自由でいい」って、むつかしいよね。じぶんで言っときながら、かなり乱暴なことばだなって思いました。
「じぶんを自由にしてあげられない」ということばから、くりこさんの切実さがじんわり伝わってきました。多分、そこにはいろんな感情があって。恥ずかしさとか、それこそ、「私ごときが」っていう気持ちとか。そこを取っ払うためには、うーん、どうすればいいんだろう。「詩を書いて過ごす豊穣な暮らしを空想する」っていうところから、はじめてみてもいい気はしている。

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さて、やっぱりらちがあかなくなってきたので、ここでくりこさんに無茶振りをしてみようかしら。私たちの共同マガジンの名前はペチカ。その意味はロシア語でオーブン、暖炉という意味です。とつぜんで戸惑うかもしれませんが、ペチカをイメージして詩を書いてみませんか?もちろん、もちろん、わたしも書きますので。

わたし、やっぱりくりこさんのことをもっともっと知りたいんです。ネガティブなイメージを持ちながらも、詩に対して好奇心があるって言ってくれた、くりこさんのことを。わたしの詩を好きって言ってくださって、わくわくしながら詩を考えている、くりこさんのことを、さ。


あのね。
ゴーストって、おばけとか亡霊とかっていう意味の他に、逆光で写真撮影した時、レンズの縁に光が反射してできる光の輪、って意味もあるらしいんです。そんな、ゆらゆらした光みたいなくりこさんの詩の概念を、断片でもいいから肉眼で見てみたいんです。
押し付けがましくてごめんなさいね。こーんな感じで、ボールをぽんっと投げてみることにします。

おわり(ジブリっぽく終わってみた。)


※私信
くりこさん、土曜日にアップするって言ったのに遅れちゃってごめんなさい〜。お互い、アップする日とかを決めた方がいいのかなあ。でもまあ、いっか。(え?)

サポートの意味があまりわかっていませんが、もしサポートしていただいたら、詩集をだすためにつかったり、写真のフィルム代にとんでゆきます。