バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(4)石村修平

「今年は謝らにゃならんことがあってな」

 兄の急逝から明日でちょうど十五年、来年は十七回忌を迎える。
 石村修平は毎年この日に、二メートル近く積もった雪を漕ぎ進み、薯畑のやや奥、学校があった沢の出口に面し十勝連峰を一望するこの丘を訪れている。亡き兄に一年の報告と、兄弟水いらずの対話・・・のようなものをするためだ。修平に似合わぬ感傷的な習慣を周囲に知られぬよう、あえて命日を避け、前日の二十日、最後に兄と言葉を交わした二月二十日にこの場所を訪れることにしていた。

 十五年前、兄の義平が冬山造材の事故で亡くなった時、義姉の佐枝は三十一歳。石村家は大黒柱を失った悲しみの傍で、四十九日を待たずに畑仕事が始まってしまうという現実に直面していた。十一歳の富はともかく、ようやく二年生になる拓一はいくら何でもあたま数には入れられない。幸い父の市三郎や母のキワは現役と違わぬ歳だったので、柄沢の奉公人である田谷のあんさんや部落の皆の手助けを得ながら何とか畠仕事は維持できたが、義平が交渉し、その春から広げられるはずだった小作地の話は無念にも立ち消えとなった。
 次男である修平が分家できたのも、交渉に長けた義平があらかじめ方々に手を尽くし、狭い沢合のカジカの沢の田んぼと小高い丘の上にある畠を三町歩ずつ、どちらも農地として条件は良くないが合わせて六町歩を都合しておいたおかげだ。義平は弟の高い資質を踏まえ、多少条件の悪い土地ではあったが来るべき分家の日に備えていたのだ。

 修平は農業に関しては天性のものがあった。極めて勘がよく、新しい技術も易々と取り入れ、他の農民が教えを乞うほどであった。市街の鍛冶屋(後に世界的農機メーカーに成長するのだが)などは新しいプラウを試作するごとに修平の意見を大いに取り入れた。

 十年ほど前、後継に恵まれなかった隣家の小作仲間が離農し、間もなく居抜きで芦別から来たという大家族が越してきた。後に姻族となるその家族の父親は目も当てられぬほど不器用であったが、長男は体躯も畠仕事の勘も良かったので、修平は惜しみなくその経験と技術を伝えようとした。
 しかし感覚に大きく委ねる修平独自の、ある種天才的な農法を他人に理解させることは至難の業であった。なぜ伝わらないのか修平自身も理解できずに苛々を募らせ、つい元来の口の悪さも目立つようになっていった。辟易したのか結局その長男は数年で畠を離れ硫黄鉱山で働らき始めた。口うるさく当たりすぎたかと修平は自らを責め、自己嫌悪を深めていった。

 また、今では誰も知る者はないし本人も自覚しないが、実は修平は、勉強が良くできた。
 北海道入植前、まだ修平らが福島で暮らしていた頃、学校で垣間見せる修平の頭の回転の速さは兄の義平さえ感心するものがあった。ただ修平は如何せん「産声からして不服そうだった」と母キワに言わしめるほど、すじ金入りのへそ曲がりだった。悉く教師に反抗し腕にも膝にも鞭の跡を絶やしたことがない。小学校の四年間、修平の学力に見合う評価をした教師は皆無であったし、輪をかけて優秀な兄を見て育った修平自身、自分が秀でていることも理解できていなかった。
 同様に修平は、実は他より秀でている己の特性も、兄と比べることによって過小評価することが往々にしてあった。
 修平の自己評価が低いことは義平も気にかけていたし原因の一端が自分にあることも理解していた。兄はことあるごとにそれを正そうとするのだが、へそ曲がりの弟は決してそれを容れず、そのやりとりは二人が大人になってからも続いていた。
 ある日、四人目が生まれたばかりの兄がいつまでも危険な冬山造材で働らいていることを諌める弟に義平は「俺に何かあってもお前がいるじゃないか」と笑った。
 冗談じゃねぇ! 俺なんかに兄貴の代わりが務まるかよ! という、何十、何百と繰り返された恒例のやりとりの翌日、兄は冬山に命を落とした。

 兄の代わりなど務まらない。だが、そう努めねばならない。修平は兄が遺した幼い子供らを護り、導くことをいつの間にか己の心に課していたが・・・現実は果たしてどうであったか。

 昨年の六月、甥の拓一が暴漢に襲われ大怪我を負った。だが修平はその事実を、町の噂として友人の田谷仙太から聞かされたのだ。さらに拓一の足は変形治癒となり二度と元のように歩くことはできなくなったのだが、そのことさえ退院の日に、拓一の痛ましいその姿を目にするまで知らされることはなかった。

 命日を明日に控え、修平は十勝連峰を望むその真っ白な丘の上で、亡き兄に泣いて詫びた。やはり兄の代わりは務まらなかった。拓一や耕作にとって自分は、相談することも泣き言をこぼすことも、頼ることもできない叔父だったということだ。悔しいわけでも腹が立つわけでもない。ただ、自分の不甲斐なさが情けなかった。子供たちや亡き兄に申し訳なかった。

「だから言ったろ、俺なんかにゃ兄貴の代わりは無理なんだってばよ」
 短気で、へそ曲がりで、口うるさい叔父に誰が心を開くというのか。自分の気性は百も承知だからこそ思い当たる節は山ほどにあった。

 修平は拓一や耕作らの前で彼らの母佐枝に対する不満を口にすることが多々あった。今にして思えば長く離れて暮らし思いを募らせる母への誹謗は子供たちの心をひどく傷つけていたであろう。
 拓一や耕作らの母、佐枝が札幌に旅立つ日、大人たちで示し合わせ、米の飯を食わせるという名目で子供たちを修平宅に遊びに来させ、その間に荷造りし市三郎とキワとで佐枝を駅まで送り出した。
「何も知らんで家に帰って母親が居ないのはあまりにも可哀想だ」と、妻のソメノと頃合いを見計らって子供たちにその事実を伝えた。血相を変えて飛び出して行った子供たちの後ろ姿が今も忘れられない。
 ただ、修平は佐枝の札幌行きには一貫して反対していた。

「何で嫂さんが!」
 子供を寝かしつけた後の石村家に修平の声が響く。あらぬ噂を立てた深城は許さない。だがなぜ嫂さんが出ていくのだ! 何のために⁉︎ 手に職を持たせる、深城や世間の目から逃れる、いくら理由を並べられても、父親を亡くした子供を置いてさらに母親が出ていく理由としてはどれも理解し難いものであった。

 また、佐枝自身が肋膜にかかり修行が中断した時さえ家族に迷惑をかけるからと帰らず、赤の他人に世話になっていたことも大いに不満であった。頼らない、迷惑をかけないなら何のための家族なのか。家族とは一体何なのだ。
 子供たちの寂しさを案じたにせよ、ことあるごとに、修平は独りよがりに佐枝への不満を吐き出し続け、子供たちを深く傷つけていたのだ。

 心当たりはまだまだある。

 修平は子供らをことあるごとに怒鳴りつけた。もちろん短気な気性によるものが大きいが、誰かを、ましてや子供を教え導くことに関してはその素養を一切持たされなかった修平にとってはそれ以外に方法がなかったのもまた事実ではあるが。

 ある日、自分たち小作農家がこんなにも貧しいのに、地主が労せず多額の収入を得ていると、拓一や耕作が国のあり方を批判したことがあった。誰でもそう思う、至極真っ当な考えではあるが、時代は決してそれを許さない。
 修平は震えるような気持ちであった。正しい主張が必ずしも正解なわけではない。若い兄弟の真っ当な主張は本人、いや一族の存亡さえ左右することがある。義平であれば、兄であれば穏やかにそれを説き、子供たちの信念を尊重しつつ安全な場所に導いたであろう。だがそれは修平に持ち合わせのない能力であった。
 修平はただ怒鳴るしかなかった。理不尽でもなんでもいい、激怒する者がいる。逮捕、投獄される現実がある。ただそれだけ伝わればよかった。二度と、甥の口からそうした言葉が出なければそれで良い。もちろん修平は本能的にそうしたまでで、綿密に考えての行動ではなかったのだが、結果的に修平の「理不尽な」激昂は何度もこの兄弟を、特に耕作を社会主義者の誹りから救うこととなった。もっともそれは修平はおろか当の耕作さえ気づくものではなかったのだが。

 また、中学入学を諦めた耕作に向けて修平は「百姓の子に学問は要らん」「貧乏人の分際ってもんがある」などと言い放った。農家に学問は要らぬ。随分と旧態然で愚かな叔父と映ったろう。
 だが現在の農業、ましてや小作農家にとって学問が直接的に役に立つことはほぼ無いし、農家を継ぐ子が畠仕事もせず勉強ばかりしていたら笑われるのは紛れもない現実だ。
 もちろん、学問がいかに重要かを知らぬ修平ではない。彼を育てたのは石村市三郎だ。いずれ農家個人が、試験場の学者ばりの農学を身につけることが常識となる日さえ訪れるであろう。だが、今ではない。どんな理想を並べても、現状、上富良野の開拓農家は鍬を持ち続けなければ即刻飢えてしまうのだ。

 何年か前、市街の学校に札幌から新任の教師が着任した。情熱溢れる都会育ちの若い教師は農民にこそ教育が、学問が必要と熱弁した。
 しかし残念なことに、明日も知れぬ貧しい小作農家に対して、市街の者が米の飯を食べながら「鍬を置け、教科書を取れ」と説いても響くはずもない。一言居士の修平はなおさら黙っていなかった。
 若い教師は顔を真っ赤にして反論したが口の達者な修平らにとっては玩具のようなものだ。
 もちろん若い教師の言わんとすることは判っていた。だが、その教育改革は今、北海道の貧しき開拓農村から始められるものではないのだ。

 一方でまた別の現実もあった。兄の横顔を眺めながらよく考えたことである。兄が中学や大学に入っていたら、果たして農民としての人生を選択しただろうか。その選択が許されただろうか。現実として、高い学歴を身につけた者は農家にはならない。いや、なれないのだ。
 農民にも教育を・・・口で言うのは簡単だ。だが兄に限らず、吉田村長や小林八百蔵をはじめ、この村を政治経済共に牽引する優れた農民の存在は高等教育と併存し得たのか。どちらも大学でも出ていれば今頃東京や札幌で高い地位を得て暮らしていただろう。甥の耕作とて同じだ。あのまま中学に行っていたら抜群の成績で卒業し、何らかの支援を得て大学にでも進み、国を動かすような要職に就いたかもしれない。
 高等教育は「優秀な農業者」を村から奪う。残念ながらそれも現実だ。

 耕作の素晴らしい学力を目にした視学が、耕作が農家の子であることを知り「なるほど、惜しいなあ」と漏らしたという。「惜しい」には様々な思いが込められれていたが、農家と学問の関係はそれほどまでに、言い尽くせぬ隔たりが存在するのだ。

「はは、何を言ってんだ俺は」

 兄に謝ろうと訪れた丘で、いつの間にか甘えるように言い訳を思い並べている自分が急に可笑しくなった。修平はにが笑いしながら立ち上がり、尻についた雪を払い落とした。
 歳こそ一人前ではあるが、石村家の子供たちからはまだまだ目が離せない。拓一も耕作もどうやら近い将来、かなり難儀な結婚問題が待ち構えているようだ。拓一は曾山の娘を、耕作は深城の娘を嫁にもらいたいと言う。
「なんとまあ、兄貴の倅どもは揃ってややこしいことを吐かすもんだ」

 欲の権化のような深城から、稼ぎ頭である福子と愛娘の節子の両方を奪うというのだ。これから何十年と深城の深くどす黒い怨嗟を背負って生きていくというのか。そしてその深城が耕作の義理の父に、ましてや母の佐枝にとっては、かつて己を手ごめにしようとし、家と、家族と離れるきっかけを作った張本人と姻戚になる、ということだ。とても甥っ子たちの幸せな未来を想像することができない。世の親とは果たしてこのような結婚を認め祝福するものだろうか。
 もっとも、いくら考えを巡らせても、修平の頭に浮かぶのはいつか節子にぶつけたようなあの言葉ぐらいなものだ。

「嫁をもらうときは親の顔を見れ」

・・・兄ならこんな思いやりも工夫もない馬鹿な台詞は吐かないであろう。兄ならきっとこのややこしい問題を誰も傷つけずに巧くさばくのだろう。

「もうやめた、無理だ無理だ」
 修平は兄の死以後、柄ではないと知りつつも、“親代わり“というものに心が囚われていた。誰しも人の代わりなどできないのだ。皆それぞれに与えられた役割もあるのだろう。十五年もかかってしまったが、拓一の大怪我をきっかけにようやく目が覚めたような気がしていた。
「俺はさしずめ、間抜けで短気で口やかましくて物分かりが悪くて面倒臭え叔父、ってところか。確かに誰にも代わりはできねえな」

 丘から十勝連峰に目を向けると、稜線を這うように低く照らす太陽の光が雪原に反射し、目も開けられぬほどに眩しい。ピシリと音を立てそうに凍てついた空間では水蒸気が凍り幻想的に細氷が広がっている。

「お前がいる」
 思い返すと兄はいつもそう言っていたが、決して「代わりがいる」とは言わなかった。修平は兄の言葉を反芻し、濛々と煙を吐く十勝岳に向かってつぶやいた。

「おう、俺がいるぞ、兄貴」

 遠くで、二番列車の汽笛が鳴った。

1928年2月20日  石村修平(45)


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