おばんでやん衆

三浦綾子著・小説『泥流地帯』『続泥流地帯』の感想だけ、ひたすらそれだけを書いています。

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三浦綾子著・小説『泥流地帯』『続泥流地帯』の感想だけ、ひたすらそれだけを書いています。

最近の記事

バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(8)菊川政雄

 菊川政雄は一昨日から教員検定試験のため、受け持ちの日進分教場を臨時休校として旭川市内に滞在していた。昨日の雨模様とはうって変わり今日は五月も末の、春らしいうららかな一日であった。  菊川は常磐公園の傍の、陸軍第七師団を顧客とする商人たちがよく利用する安宿に向かっていた。一日目の試験を終え、今日の出来と明日の対策を思案しながら歩いていたが、旭橋から見える石狩川のゆったりとした美しい流れに目が止まり、つい足を止めた。  自分の育った日進部落はもちろん、上富良野村全体を見渡しても

    • バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(7)石村市三郎

      「山津波だあーっ!早く山さ逃げれーっ!」 「何ぃー!山津波!?」  開拓者の危機に対する感度は極めて高く、そして繊細だ。拓一や耕作の叫び声から、市三郎はその過酷な人生にあっても類を見ない、尋常に非る危険が迫っていることを瞬時に感じ取っていた。 「キワ!良子!山津波だ!今すぐ逃げれ!すぐ出れ!走れぇ!」  市三郎の声はよく通る。家の中にいる妻のキワと孫の良子に向けて、有らん限り声を張り上げた。 (誤ったか!)  叫んで一秒かそこらの後、市三郎は己の判断を激しく悔いた。

      • バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(6)花井澄子

         ねえ節っちゃん、そう思うでしょ?本当におかしいのあの人。  今朝なんて 「花井先生は石村に気があるんですか?」  ですって。違うのよ、そんな話しは全然してなかったの。ただ私、石村さんが教師になるなら師範学校に行くべきだって言ったの。石村さんみたいな優秀な人が上富良野で先生になるなら、これから長い間たくさんの子供たちを教えてくれるなら、それは大切な宝だと思うの。そりゃ代用教員でも日進の菊川先生みたいな方もいらっしゃるわよ。でも石村さんには自己流じゃなくって師範学校でしっかり学

        • バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(5)益垣公三

           益垣の苛々は頂点に達していた。元々の癖である貧乏ゆすりが一層激しくギシギシと職員室の古びた床板を鳴らす。同僚の花井澄子は益垣に顔が見えないよう背中を丸め眉根を寄せた。柔和でやや気弱な花井が他人を嫌ったり軽蔑したりすることはない。陰険で狭量な益垣を除いては。  陰険で狭量・・・そうした辛辣(ではあるが的確であった)な評価を受ける反面、彼の教育に対する姿勢は意外にも真摯なものであった。  自発性や個性を尊重し始めた若手教育者の時流とは一線を画しやや保守的な教育方針ではあったが、

        バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(8)菊川政雄

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(4)石村修平

          「今年は謝らにゃならんことがあってな」  兄の急逝から明日でちょうど十五年、来年は十七回忌を迎える。  石村修平は毎年この日に、二メートル近く積もった雪を漕ぎ進み、薯畑のやや奥、学校があった沢の出口に面し十勝連峰を一望するこの丘を訪れている。亡き兄に一年の報告と、兄弟水いらずの対話・・・のようなものをするためだ。修平に似合わぬ感傷的な習慣を周囲に知られぬよう、あえて命日を避け、前日の二十日、最後に兄と言葉を交わした二月二十日にこの場所を訪れることにしていた。  十五年前、

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(4)石村修平

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(3)武井隆司

           ・・・で、石村の家では俺のこと何か言ってたかい? うん、義理欠いちまってな、俺のこと恨んでると思ってさ。・・・そうか、あそこの家はみんな優しいもな。  その点うちは色々と複雑でさ。知ってるかもしらんが、うちのお袋は後妻でさ、弟四人は皆連れ子ってやつなんだ。  うちは元々芦別で小ぢんまりと馬具屋やっててさ、親父は二代目なんだけど、とにかく不器用で全然儲からないんだよ。物心ついた頃からずっと貧乏でさ。それでもお袋、本当のお袋が死んでからもしばらく、父子二人でまあ仲良くやってた

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(3)武井隆司

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(2)武井富

           母ちゃんが居なくなった日…ですか? はい、とてもよく覚えています。本当にはっきりと。  いとこの家で遊んでいたら、叔母さんが「あんたらの母さん、もう家におらんわ」って。はい、突然に。弟二人と慌てて飛び出しました。私は小さい妹を背負ったまま。半里ほどですか、家までの道を全力で走ったんです。あんなに必死に走ったのは最初で最後かもしれません(笑)  でも、走りながら色んなこと考えてしまって。拓ちゃんも耕ちゃんも「絶対嘘だっ」って、あ、弟です、拓一と耕作。何回も何回も叫びながら走る

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(2)武井富

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(1)坂森五郎

          ・・・母ちゃん、母ちゃん、あんな、おれ今日から三年生になったんだぞ。  したらな、先生だれだったと思う? 前にさ、四郎兄ちゃんがとうふやで会ったって言ってた石村先生だったんだ。  おれさ、びっくりして「とうふや!」って言ったんだ。おれ本当はさ、「兄ちゃんがとうふやで先生に会ったって言ってたぞ」って言いたかったんだけどな。先生もびっくりしてたな。 ・・・母ちゃん、あんな、母ちゃんと一緒に一郎兄ちゃんと三郎兄ちゃんも死んだべ。しばらくして、おれ一年の時だっけな、知らん小母さん

          バイプレイヤーズ 〜泥流地帯の12人〜(1)坂森五郎

          曾山国男はなぜ深城鎌治を●さなかったのか 〜泥流地帯考察〜

           ちょっとした違和感なのですが、続編「村葬」で自分のために席を取っていた深城を見つけ、手招きに対して頭をペコンと下げる国男の姿が描かれています。  席を取っていてくれた、といっても相手はかわいい妹を借金のカタに買い取り、遊女として何年もこき使っている憎っっくき男です。  「人をかき分けかき分け、深城のそばに行き、その頭をポコンともぎ取った」ならわかりますが「ペコンと下げた」というのは一体どんな感情なのでしょうか。  深城の行動に対しては「殊勝にも看板妓の福子の遺族代りとして

          曾山国男はなぜ深城鎌治を●さなかったのか 〜泥流地帯考察〜

          不都合な奇跡(現実) 〜泥流地帯考察〜

           拓一が実は超人でもなく聖人でもない普通の人であり、その普通の人であることにこそ大きな意味がある、というわたしの勝手な主張はこれまで何度か垂れ流してきたところでありますが、一方で過小評価されていると思ってしまう拓一の行動があります。泥流からの生還。  「母ちゃんに孝行せっ!」と耕作に言い残し猛り狂う濁流に飛び込んだ拓一。ネタバレの恐れがありますが多くの人が予測したとおり無事に生還します。  死んでしまったものと諦めていた兄との再会。じっちゃんと良子の野辺の送りの真っ只中、今

          不都合な奇跡(現実) 〜泥流地帯考察〜

          福子の闇〜ハッピーエンドとは〜 泥流地帯考察

          【ネタバレ注意】  『泥流地帯』冒頭で描かれた深く冷たい闇。そして『続泥流地帯』のラストシーンで描かれた目も眩むばかりの光。深い闇から眩い光へ。見事なラストシーン、文句なしのハッピーエンドに何度でも号泣できちゃう名作『泥流地帯』なんですが、しかしどこかモヤモヤしたものが残るのは私だけではないですよね多分。  なぜなら輝ける新たな人生へ歩みを進めるはずの福子の、ポジティブな心理描写が全くないからなのです。  それどころか深雪楼を出てから汽車の中まで福子の様子すら一切描かれてい

          福子の闇〜ハッピーエンドとは〜 泥流地帯考察

          How old is 加奈江ちゃん 〜泥流地帯考察〜

           どうでもいいことではあるのですが、長いこと修平の娘の加奈江ちゃんが耕作より年上だと勘違いしていたらしい、ということに気がつきました。  よくよく読んでみると「従妹」の加奈江、と表現されていますのでこれは明らかに耕作より年下ですよね。加奈江のきょうだいの貞吾は耕作の一つ下なのでさらに下(もうこの時点で「えっ貞吾が兄だったの!?」と驚愕しちゃうんですが)、それでもさすがに良子の同級生以下ということはなさそうですから、耕作より二ないし三歳下(良子は耕作の四歳下)であると思われます

          How old is 加奈江ちゃん 〜泥流地帯考察〜

          「そんなこと」ってどんなこと? 〜泥流地帯考察〜

           正編のラスト間際、「煙」の章の第四節にこんなやりとりがあります。市三郎と良子の亡骸と過ごすカジカの沢の夜。 「そんなこと、考えたって仕様がねえ」  沢の青年たちと話し込んでいた修平の声に 「仕様がねえかなあ」  と妻のソメノがしょんぼり答えます。  実はこのやりとり、以前からずっと気になっていました。「仕様がない」とは何のことだろう。「そんなこと」って何のことだろう、と。  福子の寂しいほほえみ、けたたましく笑う節子、武井の気持ち悪いふるまいなど、他にも私の心に引っか

          「そんなこと」ってどんなこと? 〜泥流地帯考察〜

          曾山家の謎 〜幻の弟問題〜

           『続泥流地帯』村葬の章第3節、綾子さんから突然衝撃の発表があったことにお気づきでしょうか。  「曾山の家には、父母"弟"妹が死んだのだから〜」と。  はて。福子に弟なんていたっけか?  まあ「弟妹」自体が年少のきょうだいを指す言葉ですから、「父兄」のように「親きょうだい」的な使い方なのかな?という気がしないでもありません。  しかしこの場面は被災者への公的な見舞金の話題であり、流失家屋200円、死者ひとり100円、さらにひとり増すごと50円とあり曾山家は450円(家屋2

          曾山家の謎 〜幻の弟問題〜

          武井シンを憎む前に 〜泥流地帯考察〜

           被災しなかったカジカの沢に住む武井シンが「心がけがいいから助かった」と幾度か口にしたことで多くの被災者を傷つけ、憂悶させます。 「死んだ者は心がけが悪かったというのか」 「死んでいない深城は心がけが良かったというのか」  人は誰しも無意識に、悪意なく人を傷つける(傷つけている)という罪に触れられ、物語後半の重要なテーマにもなっているわけですが、もちろん「こういうことを口にせず生きるべき」ということではありませんよね。  こういう言葉を決して吐かない人生をストイックに歩ん

          武井シンを憎む前に 〜泥流地帯考察〜

          性と聖〜 福乳に与えられた役割と三浦文学のエロティシズム

           さて『泥流地帯』を読み解く上で私の前に立ちはだかる大きな壁。ストーリーだけでなく、複雑にこじれた耕作の恋愛観や女性感、さらには信仰に至るまで、もろもろ考察するに避けては通れぬ「福乳」つまり「福子の乳房」問題。  なんというか、耕作が福子の青白い乳房の記憶をご神体の如く扱っておるのですが、私もそれに釣られているのか、これまで深く考えないように無意識に避けていたような気がします。といいつつこういったメジャーなネタに触れ始めたってことはネタが尽きてきたんでしょうかね。

          性と聖〜 福乳に与えられた役割と三浦文学のエロティシズム