歴史小説『アラトリステIII ブレダの太陽』 ~ベラスケスの華やかな御用絵画には決して描かれない薄暗い塹壕からの物語
著者: アルトゥーロ・ペレス・レベルテ /レトラ
出版社: イン・ロック
サイズ: 単行本
ページ数: 320p
発行年月: 2007年01月
定価: 1575円
読書メモ
1625年の「ブレダ攻囲戦」を扱った(当然スペイン側視点ですが)、稀有な小説。作者および訳者が、この時代に対する知識が深く、研究書と遜色ないレベルで読めます。とくに訳注の充実は通常の小説にはないところ。訳注のデータに若干の数字の違いなどあるものの、オランダの人名や地名はオランダ語で記載されているのも嬉しい。
ベラスケス(1634-35)『ブレダの開城』 In Wikimedia Commons
ベラスケスの描いた上記の絵画『ブレダの開城』をモチーフにしてはいますが、小説の内容自体は、攻城戦なので至って地味です。戦争は司令官の視点で書かれるものが多いですが、この絵画にある司令官たちはほとんど登場せず、あくまで兵士側の立場から書かれた小説です。戦争は、データで見ると「死者○千人」と数字だけで書かれてしまいがちですが、兵士からの視点だと、この数千人の兵士たちがそれぞれどんなステージでどんな最期を迎えたのか、リアリティをもって淡々と描写されます。
とはいえ、日本人は17世紀のヨーロッパの戦争に明るいわけではないので、いちど DVD『アラトリステ』を観てからのほうが、この時代の坑道の中の様子や野戦のイメージが映像でわかって良いかもしれません。第5章・第6章には野戦の様子がかなり事細かに書かれています。野戦といっても、この場合は攻囲戦に伴う局地的な小競り合い(テルヘイデンの戦い)のことです。DVDのラストを飾るロクロワの戦いは、実際の野戦よりもやや小さなスケールでの映しかたになっているので、むしろこの3巻の内容にちょうどいい規模かもしれません。
史実との違いについてちょっと補足します。1625年に入ると、オランダ軍総司令官のオランイェ公マウリッツはもう既に戦場に出られないほど病気が重篤になっていたため、遅くとも3月くらいからは、援軍の指揮は完全に弟のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクに委譲されているはずです。さらに細かく言えば、フレデリク=ヘンドリクも結婚のため一時期ハーグに戻っているので、従兄弟のナッサウ伯エルンスト=カシミールが実質的に総指揮を執っている期間ともかぶっています。スペイン人の心情としては、「スピノラの長年のライバルであるマウリッツからの勝利」を強調したいという意識だと思いますが、物語のクライマックスの4月半ばまで司令官がマウリッツとして書かれており、唐突に死因も書かれずに「死んだ」とされるので、なんだか戦死したような印象にみえます。(実際は病死です)。
繰り返しますが、全体を通してひたすら地味で淡々とはしています。しかも戦争や略奪のシーンがかなり詳細に書かれているので、残酷な描写が苦手な人にはややつらいかもしれません。逆に情報量の多さは比類なく、小説なのに「情報」として非常にレベルの高いものになっています。
シリーズものの第三巻ですが、これはこれとして独立して読むことができます。なお、史実の人物としてフランドル軍総司令官のアンブロジオ・スピノラ将軍が台詞付きで登場します。その高潔な言動で知られるスピノラ将軍ですが、「兵士から見たスピノラ将軍」はやはり所詮(という言い方をしてしまいたくなるほどに)貴族の将校です。アラトリステとのなんだかうまくかみ合わない会話もあります。
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