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『正三角関係』ヨハネの福音書を考えてみる

夏はポケモン!みたいなノリで
親友とここ数年NODA・MAPを観劇している。
まあただの比喩で、野田作品を浴びた帰り道は
いつもズーンとした感情でなんとか駅に向かって足を進めるのだが。

初めては3年前の『フェイクスピア』。
高橋一生が主演の舞台を見たいが故に足を運んだ訳だが、帰るころには野田秀樹の世界観に圧倒され、魅了されいつの間にかLOVE秀樹になってしまっていたのである。
そういった意味では今回のフライヤーに書いてあった野田さんの言葉
「入口と出口が違わなくてはいけない」
は既に達成済み。
(なんという安い感想)


さて、今回の『正三角関係』
昨年の公演から既に目を付けており、絶対に行こうと話していたら、まさかの松潤が主演!
某J事務所のヲタクをしている私が初めてのMJを
野田地図で見ることになるとは思っていなかった。
そしてチケットの倍率もとんでもなく大変だった。

おかげで会場は紫のアイテムを身に付けた御姉様方も多く、自分よりも若そうな見た目の女の子たちも結構いて、例年と比較するとなんだか異質な雰囲気だったように感じる。
その証拠にXで#正三角関係を検索しても中々考察が上がってこない!
漁りたいのに見つからなくて書きながらもモヤモヤっとした感情が離れず。
別にそれが悪いことだとは思っていなくて、同士が見つからない不安が一要因なのだけれど。
だから数日色々と考察したことを記録として残しておこうと思う。




⚠️ネタバレします⚠️




在良が所々で口にしていた

「一粒の麦が落ちて死ななければ
それはただの一粒のままである。
しかしもし死ねば豊かな実を結ぶだろう」

(ニュアンスですみません、はやく戯曲届け)


ヨハネの福音書12章24節に出てくるそうなのだが、「死」とは一体何を指しているのだろう。



今回の作品に置き換えてこのセリフを解読すると

麦=原爆 
死=人の死
豊かな実=戦争の終結

『原爆を落とさなければ戦争は終結しない。
落とせば戦争は終わり、自国民がこれ以上死ぬことはなく平和になるだろう。』

というように解釈することが出来る。


なんと身勝手な。
これが今も変わらないアメリカの主張だ。



では、この言葉を威蕃の立場に置き換えてみる。

麦=原爆
死=人の死
豊かな実=科学技術の発展

『ファットマンが爆発しなければ僕の科学の証明は失敗に終わる。しかしこれが成功したのなら、科学技術の発展に大きく繋がるだろう』


このように解読できるのではないか。

戦時下の科学者の中には、快適な生活環境を与えられ、その中で軍が希望している研究課題をこなしていく者もいたという。
その研究中は、軍側の機密情報は与えず、他の研究者との情報交換も制限し開発の計画の全貌を知らせないようにする、などの統制が取られており、そのおかげで科学者は兵器運用の現場を意識せずに研究を続けられたそうだ。

威蕃もきっとその一人だったのだろう。

途中で出てくる科学者たち(野田さん、村岡さん)は確かに
「あとは点火装置だけ」
と言いながら何に使う研究なのかは明確にしていなかったはず。
そして花火師の兄が適任だと威蕃が言い出すと、
最初はバカにしたような態度を取っていたのにも関わらず、最後は
「身内ならその方が都合がいい」
といって富太郎を連れてこさせるのだから。

原爆が落とされ、彼が最期を迎える時
空を見上げながら嬉しそうに口を開けて笑顔で散っていった。
それは科学を信じ、自分のために研究を続けてきた素直な彼の想いなのだろう。


参考
https://www.asj.or.jp/common/img/contents/activities/security/111-3_202.pdf

「戦時下日本で、科学者はどのように軍事研究に関わったか」
川村 豊氏の論文
時間があったら是非…。



最後に、私たちに訴えかけられた死とはなんだろうか。

この著者の解釈では
死=執着している考えを手放すこと
と述べている。

昨今、そこらじゅうで当たり前のように戦争が行われている。
何故か私たちはそれを仕方がないと思ってしまっている。

曲解気味ではあるが
「国同士の問題を解決するために戦争が行われることは正しいことだ」
と言っているに等しいのではないだろうか。

そして核戦争がいつ起きてもおかしくない、起こればすべて終わる。
そういう風にとらえている人も少なくないであろう。
私もその一人であった。
考えるだけ無駄だと思ってしまっていた。
この作品を見るまでは。

・戦争はあらゆる人間が共存していくために必要なこと
・核を持っていないと、最後は使わないと、平和を保つことが出来ない

このような考えを手放さないと私たちはずっと死ぬことの無い麦のままなのだろう。



おわりに

観劇した日が8月6日で。
この作品を観られたことも、目の前に居る演者が生きていることも、会場にいる人全員が同じ時を過ごしていることも、その当時を生きていた人が命を繋いでくれたからなんだよなとか色々考えてしまいカーテンコールで大号泣。
もちろん演者さん全員が素晴らしかったけれど、
心からこの作品を賞賛できるかと言うと自分には評価が難しくて立つことは出来なかった。
そんな感じで今年はよりいっそう重い感情を持ちながら帰路に着いた。


『形あるものはいつかは無くなるって言っていいのは落とした側じゃなくて落とされた側でしょう?』


しばらくこの言葉が頭にこびりついている。

折角日本に生まれたのだから、折角日本人の血をひいているのだから
これを言えるのは私たちだけなのだから。

とにかく死ぬ時まで私は抗って生きていたい。


p.s.
ネコの名前がケラリーノ・サンドロヴィッチは本当に笑った

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