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『努力』することの大切さ #私のルーキー時代 4回 原貴大


『努力』
この二文字は今の自分が最も大事にしている言葉だが、同時に最も嫌いな言葉でもあった。
実際、高校卒業まではほとんど苦労しなかった為、努力することから避けていた。
ましてや、大人たちに口酸っぱく言われていた、「何においてもレベルアップするには個人の努力次第」の言葉の意味を正しく理解出来ていなかった。ただ、闇雲に前向きにベクトルを持てば良いと思っていた。
学業の方でそれなりの成績を維持できていたし、サッカー部でも試合に出れていたので、それで満足していたのかもしれない。


勉学における努力

一度大学受験に失敗して浪人が決まった時、努力が足りなかったと思い、もう一年努力し直そうと考えた。しかし、ここで考えていた努力も間違ったものだった。案の定、成績は右肩上がりと言ってもほとんど横ばいで志望していた学部を諦めざるを得なかった。
ここで、初めて努力という言葉が分かったのかもしれない。
しかし、言葉の本質はまだ理解できていなかった。

サッカーにおける努力

高校のサッカー部では試合に出れていたし、大学生と試合した時に、相手チームが当時関西3部のチームということもあって、大学サッカーのレベルはあまり高くないと感じ、大学のサッカー部に入部するまでは今まで通りのプレーで試合に出れるだろうとたかを括っていた。
しかし入部してすぐに今まで自分の考えが甘かったことを実感する。
府大サッカー部で求められていることに対して当時の自分のレベルがかなり低くさらにサッカーに関する知識も浅かったため試合に出れる機会が少なく、出場しても失敗ばかりで、今までの積み立てが無かったことを肌で感じた。
さらに追い討ちをかけるように、同学年の同じポジションの選手は公式戦に出場したりと、どんどん先を越されて差が広がってくばかりだった。
そこで、彼と自分の何が違うかを考えた結果、努力の仕方が全く異なっていることがわかった。


努力の仕方を変えた結果

このままではサッカーを続けている意味が無いと感じ、もう一度自分を見つめ直した。

人間はある程度努力すればそれに見合った結果が得られる。
努力したにもかかわらず、よくない結果に終わることもある。
自分にとって、無理な願望に向かって努力するのは、努力の方向が悪いということだ。
しかし、無理だと思えないような願望だとして、それに向かって努力しても結果が出ないとすれば、それは間接的な努力が欠けているからだ。


努力することは素晴らしい

しかし自分が努力していると思っているうちは、まだまだ努力が足りていない。
そこには、まだ自分がやりたくないと思っている気持ちが残っていて、それでも無理にやっているという事の矛盾が生じる。


努力の仕方を変えて初めのうちはストレスを感じて、何度も心が折れそうになったが、そこで、折れたら負けだと思い、ひたすらに努力を続けた。



今でも、この努力は続けている。
努力が報われる日は本当に来るかは分からない。
しかし、努力しなければその可能性すら無くなってしまう。
あと1年という長いようで短い時間だが、悔いの無いように過ごしていきたい。



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