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野球が大好きな元陸上部で現GKの人生#私のルーキー時代 2年 末廣雄大

はじめまして。                                
大阪府立大学2回の末廣雄大です。

今回、私のルーキー時代というテーマで投稿する機会をいただいたので、中学から大学までの人生?について書いていこうと思います。ちなみに私は大学に入ってからサッカーを始めたので、大半がサッカーとあまり関係のない話になってしまいますが、よろしくおねがいします。

中学での部活選び

私は中高一貫校に入学して、まず考えたのは部活動です。本当であれば一番好きな野球部(やったことはないが)に入部したかったのですが、親から勉強と両立できないと言われ、断念しました。そこで自分の中で得意だったサッカーをやろうとしました。しかしそこは、部活ではなく同好会(いわば活発なサークルみたいなもの)で、人数が10人もおらず同期が誰もいない状態だったのでやめました。中1の半年間はなんの活動もしないままでしたが、なにかしら動かないといけないと思い、10月から陸上部に入部しました。(この頃は成績が良かったので、学年順位縛りで親を納得させた)

中1‐中2夏

陸上部での6年間は、絶対に忘れられないものでした。私は最初長距離に属しており、最初のスポーツテストの1500mも学校で一番速かったので、なんとなく自分は速いものだと思っていました。しかし、陸上部に入部して最初の練習のインターバル10本の3本目の時点で死にかけました。先に入部していた同期は既に自分を優に超しており、半年間なにもしてこなかったブランクもあって全く通用しませんでした。

今すぐ辞めたい


これは入部して2日目で抱いた率直な気持ちです。              とはいっても、チキンな私は辞めますとは到底言うことなどできないので、結局毎日の苦しい練習を耐え抜いてきました。授業よ終わるな、雨よ降ってくれ...といったような生活でした。それでも、中2の総体でやっと1500mで5分を切れました。(県大会にすら全く届かなかったが)。そこで、私に転機が訪れます。

中2夏‐高1夏

私は小学校のころハードルをかじっていた経験もあり、顧問にハードルを勧められて転向することになりました。やっと長距離の練習から離れられる...それだけでうれしくて仕方がなかった。とはいっても、足は遅かったので県大会に進めはしてもお話にならないタイムでその先には及ばなかった。周りの同期は、短距離で四国大会に進んだり、リレーで全中に出場したり...     リレーは走者4人+補欠2人で登録されるので、私もメンバーに入れてもらえましたが、他のメンバーよりタイムも遅く、出る機会などありませんでした。高校からはみんなを見返してやろうという気持ちになり、最初の方は高いモチベーションを持って練習していました。中高一貫校なので当然のように高校も陸上部に所属したままでした。私は高校からもハードルをやりましたが、そもそもの走力が足りない。障害走といえども、結局は短距離なので、足が速いことは勝つためには必要条件でした。上の舞台で戦うのはハードルでは厳しいということで、高1の総体後から顧問にやり投げを勧められ、またまた転向することになりました。

高1夏‐高3

私がやり投げを始めたころはきれいに投げることもできず、思っていたより難しいというのが最初の印象でした。私は野球が好きだったので、物を遠くに飛ばすことは楽しかった。しかし、そのころから陸上以外の私生活が乱れてきました。授業は寝る、夜遅くまでスマホを触る、課題やらない...そのときの私はメンタル的にも幼く、嫌なことから逃げてばかりで、学校にも迷惑をかけるいわば問題児でした。顧問に私生活や陸上に関して、毎日怒られてばかりの生活。一度本当にグレてしまったことがあり、その時は部活を続けさせるか辞めさせるかまでいったのですが、顧問がここで私のことを見放すことはできないと言ってくれて、最後まで陸上を続けることになりました。                                     

ここで部活をやめていたら人として終わっていた

                                  実はここが私の一番の転機だったのかもしれない。そういった経緯もあり、私は絶対に自分を変えていかなければならなかった。私生活や、陸上に対する姿勢。なにもかもが中途半端だった自分を変えたい。その時から、やれることは全部やろうと思い考えつくした。しかし、それでも自分はやり切れていなかった。自分のMAXを出し尽くせたのか?陸上ノートで毎日自分自身の心の弱さと向き合った。  

やっているつもりという恐ろしさ

高2のときに結果が出なかった最大の要因は、やっているつもりになってしまっていたことだと思う。本人はやってると思い込むからこそ、改善しようとできない。そして結果が出ないから悩む。また何かを変えようとする。やってるつもりになる...の悪循環である。努力は裏切らないとよく聞きますが、間違った努力をしていると簡単に裏切られる。私はそこで筋トレや体幹トレーニングに全力で取り組みました。筋肉は裏切らない。これだけは間違いないと思っている。そして高3は最後のシーズンということもあり、絶対に勝つという思いだけで練習をやりつくした。

高3の最初の方は思ったように飛ばないようなことも多かったが、試合を重ねるごとに一気に記録が伸びてきて、もしかしたら上の舞台で戦えるかもしれないというところまできた。順調に県大会まで進み、絶対にここを超えたかった。ここでは6位以内に入れば地方大会に進めます。予選は8位でギリギリ決勝まで進んだ。しかし、決勝でも8位になって地方大会に進むことはできなかった。この瞬間に、私のやり投げ人生が終わった。

大1‐

大学に入って、陸上を続けるか、それともサッカーをするかでとても迷った。まず自分が考えたのは、絶対に部活に入りたいということ。野球部は経験者のみだったので入れなかった。長い間悩んだ末に、サッカーに本気で取り組んでみようと覚悟を決めた。ここから私のサッカー人生が始まった。

入部したての頃は、分かっていたことだが周りとの大きすぎる技術や思考の差があった。絞る?切る?ビルドアップ?そんな状態からスタートした。技術的にも全く足りないと感じたし、練習一つ一つに必死になって取り組んだ。そのとき、GKが1年生と2年生にいなかったこともあり、GKとして練習することになった。とはいっても、GKはミスをすれば失点に繋がりやすいポジションであり、練習試合に出させてもらった時も酷い結果だった。それでも、なんとか毎日の練習でまともに試合でプレーできるようになってきた。苦手なロングキックも40mぐらいは飛ばせるようになり、できることも増えてきた。もちろんサッカーをこれまでやってきた人たちのレベルには敵わないが、まだまだ自分には成長できる余地はあると思っている。

最後に

自分は、人の話を聞く能力が低いと思う。これは大学でサッカーをし始めてから思ったことではなく、これまでに言われたこともあったし、自分でもそう感じていた。いろんなことを学んでいくためには絶対に必要である。また、陸上部時代の顧問に言われた言葉で印象に残っているものがある。

最後は人間性

もし何かに困ったとき、行き詰まったときに、助けてもらえるかどうかはその人の人間性によって左右される。ある分野で優れた人がいても、人間性が伴っていなければそれが通用しなくなったとき人はすぐに離れていく。私は応援されるような選手になっていきたい。もちろんそれが目的でサッカーをしているのではないが、真摯にサッカーにも向き合っていくことで自然とそういった選手になれると思う。もっと何かしらチームに貢献できるように頑張っていこうと思います。拙い文章でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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