私の発言 辻内 順平氏 面白い種はいっぱい転がっているから,気がついたらおやりなさい
東京工業大学 辻内 順平
Emmett N. Leith Medalは光情報処理の分野への重要な貢献を表明する賞
聞き手:この「私の発言」は,当O plus E誌の創刊号からずっと続いていますが,辻内先生には創刊間もないNo. 14(1981年1月号)にご登場いただきました。その後も弊社より辻内先生の著書を出させていただくなど,大変お世話になっております。
辻内:会社の創設者である松下要さんと私は機械試験所のときに同僚で,松下さんは図書室の主任でした。そこからお付き合いが始まりました。本もたくさん出していただきましたね。
聞き手:はい。「シミュレーションで見る光学現象」「ホログラフィーによる計測と検査」など辻内先生の翻訳の書籍がご好評いただいております。さて,今回辻内先生は,OSA(Optical Society of America)の2017 Emmett N. Leith Medalを受賞されました。簡単にEmmett N. Leith Medalについてお教えいただきますとともに,受賞のご感想をお聞かせください。
辻内:OSA がEmmett N. Leith Medalを作ったのは,2006年で,最初の受賞者がA. Lohmannです。OSAは賞によく人の名前を付けるのですが,一番ふさわしい人としてLeithの名前を付けたのです。Leithの名前になじみのない方もいらっしゃるかもしれませんが,光情報処理やホログラフィーを研究している人たちにとっては,よく知られた名前なのです。
聞き手:Leith先生はどのような功績をあげられたのでしょうか。
辻内:Leithはミシガン大学の先生で,レーダーの情報処理に光を使用した初めての人です。
ホログラフィーは,被写体を記録するときには,波長広がりの小さな光源(通常はレーザー)で物体を照明します。物体を透過,あるいは物体で拡散反射された光(これを物体光という)に同じ光源からの光を分割して作った平行光束(これを参照光という)を重ね,物体光と参照光の干渉によってできた干渉縞を超高解像力のガラス乾板(ホログラフィー用の記録材料)に写真記録すれば,ホログラムができます。
ホログラムは直接見ても何が記録されているか分かりませんが,ホログラムに参照光と同じ光を当てると回析光を生じて記録されている像が見えるようになります(これを再生といいます)。再生された像はホログラムをはさんで前と後ろに2個できます。
発明者であるD. Gaborが最初に提唱した時は,いわゆるインラインホログラムというもので,再生された画像が全部,同じ軸の上に並んで見えます。そのうちの一つの像を見るともう一つの像が焦点外れの状態で重なって見えるため,邪魔になってディスプレイには使えません。それを避ける提案が学会誌にたくさん出ましたが,成功した方法はありませんでした。
その後,Leith とJ. Upatnieks(ミシガン大学)がホログラムを撮影・再生するとき参照光を斜めから入れる方法を確立しました。再生された2つの像はそれぞれ違ったところにできるので,きれいな像が見えるわけです。
聞き手:Gabor先生はホログラフィーの発明により1971年にノーベル物理学賞を受賞しました。
辻内:Gaborがノーベル賞候補になっていることは受賞の1年ほど前にアメリカに行ったとき,ニューヨーク州立大学(Stony Brook校)のG.W.Strokeから聞いていました。ただしLeithとUpatnieksが共同受賞になるかどうかが,われわれ仲間うちでの話題になりましたが,結局ノーベル賞はGaborの単独受賞となりました。
Gaborの書いた1947年からの論文は,初めにほんの短い論文で英国の学術雑誌『Nature』に出て,その後でかなり長い論文が2編続けて英国物理学会誌に出ましたが,その中に,軸から離れた所では綺麗な画像が見えるということを書いてありました。その一言でGaborのノーベル賞単独受賞が決まり,Leith, Upatnieksが外れたのではないかと私は思っています。
聞き手:なるほど。最初に論文に記したことが受賞の分かれ目になった可能性があるのですね。
辻内:そうなのです。それが重要なのです。
さて,このような経緯もあり,Emmett N. Leithは1960年代初めに現代ホログラフィー技術を確立した人となって,彼の名前を入れたこの賞は,光情報処理の分野への重要な貢献を表明するものとしてOSAが創設しました。
聞き手:受賞までの経緯をお教えください。
辻内:2011年ごろと記憶していますが, 旧知のH. John Caulfield(Fisk University, テネシー州)から「あなたをEmmett N. Leith Medalの候補者に推薦したいので資料を送ってほしい」とメールで言ってきました。それで総計140編ほどの論文リストを送付しました。その返事に「今年は非常に有力な候補があるようだから,1年待って来年推薦したいから待ってほしい」と言われました。
翌年になり,Caulfieldから推薦するとの連絡がありましたので結果を待っていましたところ,残念なことに彼は膵臓癌で急逝したというニュースを聞きました。私は多分推薦の手続きを済ませた後で亡くなったと思っていましたが,確認の方法がありませんでした。
その後OSAから全く連絡が無いので,これはもう落選だと思ってあきらめていました。
ところが,OSAの規定では候補者がその年の選考から漏れても翌年に繰り越し,新たな候補者を加えて再選考を行うことを3年間繰り返すことが分かり,最近審査員を経験したことのある人から最近の候補者に私の名前が入っていなかったことが分かりました。それなら新しく候補者として推薦したほうが良いということになりました。
再度の推薦には,スタンフォード大学のJ. W. Goodman名誉教授が引き受けてくださいました。この件に関しましては,かねてから親交のある谷田貝豊彦宇都宮大学名誉教授,武田光夫電気通信大学名誉教授(共に宇都宮大学オプティクス教育研究センター教授),清原元輔氏(清原光学会長)の諸氏からいろいろな助言をいただきました。
Goodmanとは昔から親交があり,私の光情報処理や画像復元の研究を高く評価してくれていましたので,引き受けていただいたときは大変うれしく思いました。そこで先にCaulfieldに送ったのと同じ資料を送りました。その後,Goodmanは丁寧な推薦状を添え,OSAに提出されたこと聞きました。これだけの準備をした推薦であったため,多分大丈夫だろうと思い高をくくっていたら,落選したという知らせがありました。さて,これは困ったと思いましたが,後から資料を補強しても構わないというので,研究資料を再検討し,コメントを修正して,再度送りました。今度落選したらもう駄目だろうと思っていました。
そして2017年2月11日の朝になりました。その日のことをよく覚えています。私は寝ていて気がつかなかったのですが,夜中の12時半ごろに私のコンピューターが,メールを受信していました。それはOSAの会長からのメールで,「2017年Emmett N. Leith Medalの受賞者にあなたが選ばれました」との内容でした。それがこれ(写真1)です。この手紙は後で郵送されたものですが,これと全く同じメールが送られて来ました。
聞き手:メールだけでなく,同じ内容の手紙も届くのですね。
辻内:そうなのです。
実は,私がOSAからこのような賞をいただくのは2度目になります。前回は1997年10月のことで,OSAから手紙だけがDHLで届きました。その時は私が候補になっていることを全く知りませんでしたので,手紙を見てびっくりしました。実はその年の2月に妻を肝臓癌で亡くし,ふさぎ込んでいた時でしたので,とてもうれしかったのを覚えています。
その年のOSA年会はロングビーチで開催され,授賞式もそこで行われました。ちょうどうまい具合に,弟夫婦と一緒に西海岸へ旅行しようと計画をしていたので,「ちょうどいいから,旅行の時期をそれに間に合うように決めよう」と提案し,一緒に出掛けました。われわれはロサンゼルスに泊まりましたが,私は一人でそこからロングビーチまでタクシーで行って受賞しました。
今回は,ワシントンD.C.で開催されるOSAの年会で授賞式が行われるそうです。さらに授賞式は,新しく学会のフェローに選ばれた会員の表彰式と同時に開催されることになっています。詳しいことはまだ分かりませんが,どんな方法でやるのか楽しみにしています。
受賞の理由の一つは,世界で最初に画像復元の実験に成功したから
聞き手:今回のLeith賞の受賞理由をお教えください。
辻内:先ほどの手紙の文章は “for early pioneering work in optical information processing, holography and optical metrology, including the first demonstration of coherent optical processing for image restoration”とありますが,Optical information processingは光を使った情報処理のことで,コンピューターが普及する前の情報処理によく使われた技術です。Holographyはホログラムの記録,ホログラムの応用を含む広い研究分野,Optical metrologyは光を使った測定技術をさします。これらはすべて私の専門分野であり,その分野すべての業績が評価されたことになり,大変うれしい受賞でした。
特にこの文章の後半“including the first demonstration of coherent optical processing for image restoration”は,私の研究活動の原点となった研究であり,初めての外国生活(フランス・パリ)での研究であったため多くの思い出があり,また自信のある結果が得られたので,これが評価されたのは大変うれしかったですね。つぎにこの話を少しします。
“image restoration”というのは,レンズの焦点外れや収差などで不鮮明に撮影された画像を元へ戻すという方法のことで,“first demonstration”と書いてあるのは,それまで誰もやっていなかったことを,最初に成功して見せたということを表しています。
それがこの写真(写真2)です。上が不鮮明な写真で,下は復元したものです。特に小さい文字がまったく読めなかったのが読めるようになっています。ご存じでない方もいらっしゃるかもしれませんが,実はこの写真はO plus E誌の「1枚の写真」でも紹介いただいております。
聞き手:1986年2月号に掲載されています。
辻内:O plus E誌への写真の掲載は約30年前ですが,この研究は1958年から1960年までの期間,60年近く前の仕事です。このような実験方法は光の干渉,回折を使うので,コヒーレント光学情報処理と呼ばれていました。
最近のコヒーレント光学ではレーザーを使うのが常識となっていますが,当時はまだレーザーは無く,超高圧水銀灯にフィルターを併用したe線を使っていました。
当時はこのような研究が先端的テーマの一つとなっていて,あちこちで研究をしていて,誰が最初に成功するか競争になっていました。
一番のライバルは,André Blanc-Lapierre.というアルジェ大学の先生でした。実は私は彼のところへ行ってみようと思って,パリの日本総領事館へ相談に行きましたが,当時アルジェリアではフランスからの独立運動が始まっていたので,「危険だからお止めなさい」と止められました。私が論文を発表すると,その後は全く彼の論文が出なくなりました。「これはやられた」と思ったのでしょうか。
ともかくこの研究のpriorityは私がいただくことになりましたので,この成果を出せば,賞を取れることは確実だと思っていたのです。
最初のデモンストレーション,つまり世界で最初に行ったことがこの受賞の理由の一つとして書かれていますが,こんな古い話をよく見つけてくれましたねとお礼を言いたいと思ったので,授賞式に出てみようと思っています。
私が受賞を逃がした昨年の受賞者が,Francis T. S. Yuというフィリピン出身の人でした。ペンシルバニア州立大学の先生で,私も個人的によく知っていましたので,本当はお祝いを言ってあげるべきでしょうが,今回はちょっと悔しく感じたので,止めました。
彼とはあちこちで会ったことがありますが,鮮明な記憶に残っているのは,アメリカで1991年6月に開催されたGordon Research Conferenceの時でした。アメリカのなじみの無いところからの手紙で,そのカンファレンスに招待され,「CT画像から人体の骨格を取り出し,ホログラフィック・ステレオグラムで立体表示する方法」について話してほしいと言うことでした。この方法は私どもの共同研究グループ(富士写真光機(当時,現 富士フイルム),凸版印刷,国立がんセンター病院,東京工業大学,慶應義塾大学医学部)で確立して,試作機を完成し,少し前に英文論文を発表し,また確か毎年SPIEがサンフランシスコの近くのサンノゼで開催するPhotonics West講演会で披露した直後でした。
残念ながら私はGordon Research Conferenceのことは全く知りませんでしたので,返事を書いて予稿はどうするのかなど,いつも国際会議のときの決まりを問い合わせましたが,「予稿も何も要らない。とにかく来て,そのことを話してほしい」と言われました。このカンファレンスでは招待講演1件のみで,発表に1時間,質疑応答に30分程が与えられました。ボストンからカナダへ行く道の途中にある静かな街PlymouthにあるPlymouth State Collegeが会場で,そこの宿泊施設に泊まり,講演会は夕方に開催され,近くの湖での船遊びもあって楽しい講演会でした。カンファレンスには,E. N. Leithも参加しました。夕食はメニューが選択でき大変おいしかったことを覚えています。
私がその講演で一番多く受けた質問は,CT画像から取り出した数百枚の写真を入れ替えながら表示する液晶画像表示素子のことでした。それは松下電器(現パナソニック)と共同で開発したものでしたが,それは購入できるか?値段はいくらか?などの質問が出て驚きました。
Francis T. S. Yuは,このときのカンファレンスに参加していて,質問のときに次のGordon Research Conferenceに自分を推薦してくれないかという一種の選挙演説をやりはじめたので,評判がよろしくありませんでした。でも,その彼が昨年のこの賞に選ばれたので,「よし,負けるものか!」の気分が出たことも事実です。
アメリカのもう一つの光学分野の学会であるSPIEでは,今年は宇都宮大学の谷田貝先生と武田先生がそれぞれDennis Gabor賞とChandra Vikram賞に選ばれました。今度の件では上記お二人にいろいろお世話になりましたので,「全部そろったトリプル受賞だ」と喜んでいます。
いろいろありましたが,授賞式は9月ですので行ってきます。ただワシントンD.C.は遠いのです。東海岸でしょ? 西海岸なら近いのですけれども,うまい具合に往復とも羽田発着の便が取れましたので,喜んでいます。
原理さえ間違っていなければ,手段はどう使ってもいい
聞き手:これまで長く研究されてきたなかで,研究でつまずいたり,求められた成果が出なかったときに,どうやって乗り越えられてきたかお教えいただけますでしょうか。
辻内:私は,割と研究はうまくいったほうだと思っています。しかし実験の準備とか,機材の調達には苦労しました。機械試験所にいたころはまだ戦後間が無く,機材が無くて計算に時間がかかり,何でもコンピューターで一瞬のうちに結果が出る現在では考えられない苦労がありました。私は職場に遅くまで残って仕事をしているのが嫌いで,実験は職場で,文献調査とか,論文執筆は自宅で行いました。だから,自宅には狭くても良いから書斎を作り,夕食後はそこにこもっていました。家族とは夕食の時に時間を取って話し,夜書斎で仕事をしていました。
機械試験所で顕微鏡の分解能決定の仕事をやっていたころは,干渉計で波面収差を計り,その状態でのOTFを求める必要があり,それを瞳面の振幅分布の自己相関関数で求めるのに手回しのタイガー計算機で計算しましたが,大変な手間でした。この方法で計算したのは私が初めてだと言われましたが,こんな面倒な方法を使う人などいなかったのですね。だから,Friedenという電動計算機を研究室で買ったときはうれしかったですね。その計算機は平方根が自動的に計算できる機能を持っていて,任意の数値をキーボードで入力して,平方根のキーを押せば自動的に平方根が出ました。もっとも時間は10秒あまりかかりましたがね。
苦労したことは,画像復元の実験をやっていたころ,被処理画像を準備するのが大変でした。わざと焦点を外して撮った写真を現像するとき,できるだけコントラストが低くなるような現像液を選んで処理すれば,その強度分布が近似的に振幅分布になるということを使って実行しました。こんな時,趣味の写真技術が役立ちました。
パリの水道水は極端な硬水です。研究所の写真暗室の水道には蛇口が2個並んでいて,「硬い水」「柔らかい水」と表示がありました。現像液などを作るときは柔らかい水を使います。フィルムや印画紙の水洗は硬い水で行い,最後に1~2分柔らかい水で仕上げました。水を軟化するとき少し熱が出るらしく,柔らかい水は温度が高いことが多いので,フィルムや印画紙のゼラチン層も柔らかくなるようです。それを防ぐために水洗には硬い水を使い,終わりに少し柔らかい水で仕上げました。
画像復元に使う逆フィルターとして,直径1mm程のドーナツ型の位相フィルターが必要になりました。
これを同じ研究所にいた光学薄膜の権威のF. Abelés教授に相談に行ったらそんな物は無理だと断られました。
仕方なく反射防止の薄膜を通常の7倍の厚さにすれば良いと計算で求め,8mm撮影機用のファインダーを作っている日本の光学部品メーカーに製作を依頼しました。
通常の薄膜の7倍の厚さにするために,本命のガラスは固定しておいて,モニター用のガラスを7枚次々に蒸着装置に入れ,通常の厚さの反射防止薄膜の蒸着を7回するという製作方法を示して,パリからはるばる日本に製作を依頼して成功しました。
その位相フィルターを実験室に置いたまま,夏休みにストックホルムの学会へ出掛けたところ,私の留守中に同じ研究所にいたG. Nomarski教授が持ち出していました。計って見たところ見事にπ位相(注:1/2波長,逆位相)のフィルターができていたので驚いて,あれはどうして作ったか教えてくれと言われました。留守に勝手に持ち出すとはけしからんと思いましたが,正確にできていることが実証されて,本当はうれしかったという思い出があります。
今なら数値制御の蒸着装置で簡単にできる位相フィルターの製作も1960年ごろはこんな苦労をしていました。
写真を記録したフィルムや乳剤の表面は光の波長に比べてでこぼこです。この状態で光を通すと波面が乱れ,回折が正しく行われないので,コヒーレント画像処理はできません。
それでは困るので,2枚のガラスの間にフィルムを挟み込み,その中にゼラチンや感光膜の屈折率とほとんど同じ液体で封じ込めます。これを液浸といいますが,この準備が大変で,手間が掛かるのです。何度も試みているうちにだんだんうまくなりましたが,1枚の写真を復元しようと思うと,うまくいっても30分ぐらいはかかってしまいます。それでは困るので,何とかならないかと思い,試行錯誤を繰り返しました。
聞き手:具体的にはどのようなことをなさったのでしょうか。
辻内:例えば,テレビカメラを使う方法です。これは帰国後機械試験所で行いました。細かい内容は省略しますが,試作装置による実験では原理的に正しいことが確認されましたが,広い画面に対して一様な特性を保つことが難しいことが分かりました。要するに,原理さえ間違っていなければ,手段はどう使ってもいいのです。このように違う手段で実験を試みていました。
私の恩師の1人である,東京大学理学部物理教室の石黒浩三先生は,「君のやっていることは,あれで光学なのか」と言われたことがあります。光は使っているけれども,途中で何かいろんなものが入り,また元へ戻っているからです。「原理さえ間違っていなければ,何を使ってもいいのではないでしょうか」と言うと,「それはそうだけど,びっくりしたよ」と言われましたので,「いいんですよ。そのくらいのことをしないと,こんなことうまくできませんから」と返したのですけれどもね。
つまり,これが困ったことのひとつなのです。復元は,光の回折と干渉を使えば非常にエレガントにできます。つまり,一番うまい方法を初めにやってしまったのです。ところが,意外なところに伏兵がいて,復元をする元の写真を作るために,えらく手間が掛かるのです。その手間をなくそうと思うと,いろいろと考えなければいけない。道具立ては,お金もかかり大変でした。ですがそのおかげで,光の信号の強さをテレビ信号と同じようにするにはどうすればよいかといったことも勉強できました。
例えばテレビの警察もののドラマなどで,ピントのぼけた写真があると,それをささっと処理し,ぱっと元へ戻すシーンがあったりしますが,理想はあの通りですが実際はなかなかそうは参りません。
複合開口といって,たくさんの光ピックアップを並べて同時に多くの情報をとってみたりしました。いろいろな方法を試み,随分大変でしたが,やはり一番初めの方法が,最もうまくいきました。まあ考えてみますとこの実験は泥沼状態にかなり近かったと思っていますが,うまくいったのは,偶然かも知れません。
ホログラフィーは,ホログラムの作り方,ホログラムの応用もほとんど全部やりました。これには研究室の助手の方々,大学院の学生諸君もよくやってくれました。ホログラフィーでは干渉が一番面白かったように思います。これらのことは,今年初めのO plus Eの特集(2017年1月号 特集:O plus E 4.0「ホログラフィーとつきあって57年」)でも書いていますので,ぜひ見てください。
何でもいいからやってみると次から次にテーマが出てくる
聞き手:最後に光学分野の若手技術者や学生などに向けて光学分野の面白さやメッセージをお願いします。
辻内:このごろ,日本は光学の研究が随分減りました。いっとき,「光学」の名前を付けた大学とか学科とかがたくさんありましたが,今,残っているのは,東海大学理工学部光・画像工学科と徳島大学工学部光応用工学科くらいです。また,8月にICO-24が東京で開催されますが,応募論文数の立ち上がりが遅く締め切りが延期されたと聞いています。
それでこれからどうしようかということです。
光学機器を扱う会社も,製品も減ってきています。昔は製品も会社もたくさんあって,2眼レフカメラの名前がAからZまで全部そろったという話もありました。今は大手のメーカーだけが残っています。学会でも,参加者が減っているようです。
ですから,若い人で光学をやろうという人がだんだん少なくなるのも無理はありません。
大学の講義も,光学は人気がないのです。私が受け持っていた講義「光工学」も,初めはたくさん来るのですが,どんどん学生が減りました。これは,私が学生のときも同じです。
私は,光学の講義を東大理学部の物理系教室で聞いていました。小穴純先生という有名な先生の「幾何光学」の講義でしたが,初めはいっぱいいるのにだんだんと減り,2カ月ぐらいたつと,大体半分になります。結局,半年間初めから終わりまで聞いたのは,私を含めて2人だけでした。
昔はカメラもたくさんありました。このごろのデジタルカメラは,安価なものでも,結構よく写りますし,昔は画像処理なんて,そう簡単にできなかったわけですが,今は簡単にできてしまいます。スマートフォンや携帯電話についているカメラでも結構いい写真が撮れるでしょ? ああいったものを見せられると,光学なんてやっているのがばかばかしくなる,そういう人が多くなっても仕方ありません。
そう考えると今は便利過ぎて,それがかえって皆さんの研究意欲をなくしているのかもしれないと思います。
例えば,どのように直しているかということを,ちゃんと考える人もだんだんいなくなってきました。写真なら,引き伸ばし機の印画紙を斜めにし,引き伸ばしレンズを絞り焦点深度を深くして,それで撮ったときと逆向きに斜めにすると,ちょうど元へ戻ります。そうして修正をしていましたが,いまはPhotoshopなどの便利なソフトウエアがありますから,すぐ処理ができます。昔は撮った写真をPhotoshopに取り込むことも一苦労でしたが,今は始めからデジタルデータになっていますからとても簡単です。
逆に言うと,光学の使い方がだんだん易しくなったのです。昔は随分苦労していたから,そのために何かもっとうまくいく方法を考えようとして,いろいろ試行錯誤をしている人が多かったのですが,もう必要が無くなってきたのでしょうね。
光学というのは,随分と古く,昔からある学問です。というのも,人間の五感のうちで一番情報量が多いのが目で,その目で見るのと同じことを機械にやらせようというのが,光学になりますから。
ですから,若い人に伝えるとすれば,私に言わせれば面白い種はいっぱい転がっているのです。種はいっぱいありますから,気がついたらおやりなさい。何でもいいからおやりなさいと。
ひとつうまく行くと,次から次にやりたいことが出てきます。ここまでやったから,この先をもうちょっとやってみようとか,やっていくと,面白くなるので,そういう体験を増やしていってほしいですね。
研究をやろうというとき,あまり初めから気宇壮大な計画を立てないほうがいいと思います。これは挫折しやすいのです。
そういったことは大学でいえば,教授や准教授の仕事で,企業で言えば経営者や各部門のヘッドの仕事です。若い研究者は,そんなことを考えずに小さなテーマでいいですから,気が付いたことを何でもいいからやるといいのです。
ひとつやってうまくいくと,すぐ学会誌のレターに投稿すればよいのです。私は雑誌が来ると一番始めにレターを読みます。始めは研究ノートを書いていましたが,それよりもレターを書いて投稿した方が,早いのです。Full paperはレターで報告した研究をまとめてゆっくり書けば良いのです。
それからできるだけ英語で発表することをお薦めします。国際的にpriorityを得るためには,残念ながら日本語は適当ではありません。また,学会で口頭発表する時は,まず論文とかレターを投稿してからにするとよいです。論文には必ずReceivedとかAccepted:と日付が書いてありますが,その日付が大切です。連名の場合は所属機関で内規がある場合がありますので,それにしたがってください。
以上,いろいろ細かいことを並べましたが,余りうるさく思わないでその意図するところをくみ取っていただければ,幸いです。
(OplusE 2017年9月号掲載,肩書などの情報は掲載当時のものです)
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