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常に1つのことを突き詰める,そして時々それを俯瞰し視点を変えて,新たなトライアルをしながら一貫して前進して行く

東京大学 荒川 泰彦

荒川 泰彦(あらかわ・やすひこ)氏ご経歴
1975年 東京大学工学部電子工学科卒業 1980年 東京大学工学系研究科電気工学専門課程修了
工学博士 1980年 東京大学生産技術研究所講師 1981年 東京大学生産技術研究所助教授 
1984年から1986年 カリフォルニア工科大学客員研究員 1993年 東京大学生産技術研究所教授 1999年 東京大学先端科学技術研究センター教授(2008年まで) 
2006年 東京大学ナノ量子情報エレクトロニクス研究機構長 2008年 21・22期日本学術会議会員 2012年 東京大学生産技術研究所・光電子融合研究センター長

●主な受賞 1991年 電子情報通信学会業績賞 1993年 服部報公賞 2002年 Quantum Devices賞 2004年 江崎玲於奈賞 2004年 IEEE/LEOS William Streifer賞 2007年 藤原賞 2007年 産学官連携功労者 内閣総理大臣賞 2009年 IEEE David Sarnoff 賞 2009年 紫綬褒章 2010年 C&C賞 
2011年 Heinrich Welker賞 2011年 Nick Holonyak,Jr.賞 
2012年 応用物理学会化合物半導体エレクトロニクス業績賞(赤崎勇賞) 
2014年 応用物理学会業績賞

どうせ電気に行くのならその王道である通信を

聞き手:物理分野に進まれたきっかけと,その後量子ドットを研究テーマに選ばれたきっかけをお教えください。

荒川:中学から高校の半ばごろまでは,法学部で法律を勉強したいと思っていました。法律は論理として完結する美しい体系にみえましたから。実際にはそうではないことがわかるのはずっと後になってからです。それに対して,物理学は自然科学だから理論物理と言えども論理が主導しているわけではないと,考えていました。そういった思いもあり法律に関心があったのです。
 ただ,父親が物理学者ということもあり,頭の片隅では物理をやろうかなという思いもありました。それで高校の2年半ばにやはり理系に行くことにしました。物理,あるいは当時は情報が少しずつ出始めていましたので,情報にも興味がありました。
 一時は医学部に行こうかとも思ったのですが,やっぱり生物(なまもの)は性に合わないということで,理科一類に入りました。理科一類は最初に入った時に専攻を決めなくても良くて,大学に入ってからゆっくり考えようと思ったわけです。でも入ったころには,なんとなく漠然と物理に行こうとは考えていましたね。素粒子論をやろうかなと思ったこともありました。その一方で,工学系は社会に関わることができるので工学系も良いかなと思っていました。そういったことで,物理学と電気のどちらかにしようか迷いました。社会とのかかわりがある研究をしておきたかったという思いもありました。
 そこで思ったのですが,仁科先生やディラック先生も偉大な物理学者ですが,最初は電気工学を学び,その後で物理に転向したのです。それにならって取りあえず電気をやっておいて,万一物理をやりたくなれば,その後に物理に行けば良いと思い電気を選びました。電気は,数学をいろいろ使う分野なので面白いかな,という思いもありました。当時は,電気というのは理科一類の中でもイメージが良い進学先でした。通信理論の体系に関心があったことと,どうせ電気に行ったのなら,その王道である通信だと思い,大学院では通信の研究をすることにしました。

実験で研究ができるというのはすごく意義がある

荒川:大学院では光通信路をモデルにしてそこにおける通信伝送理論等を研究していました。指導教官は,教授の瀧保夫先生でしたが,助教授の羽鳥光俊先生にもお世話になりました。大学院に進学した1971年ごろは,光ファイバー通信研究が米国ベル研究所を中心に本格的に始まったころでした。そういう中で,光通信を抽象化して,それを通信理論の体系の枠組みに組み込んだ理論を構築するというのが,私の目指した大学院時代の研究でした。これは純粋に理論の研究でした。
 特に光の量子性を考えた時に,通信路の情報論的性質がどうなるか,そこに通信路に整合した送受信のあり方などを数学的に体系化するとともに,新たな伝送符号の提案をするなどの研究を行ってきました。ですから「光」と付きながらも純粋に数学に立脚した通信理論を展開していたわけです。光通信路固有の雑音をノルムにした信号空間を考え,そこに情報の点や線を配置していくのです。博士3年の春,就職担当の教授に呼ばれて東大にポストがあるといわれました。ただし,光デバイスを研究することが付帯条件でした。
 その当時,東大の電気では,大学院生は採用されるとすぐに専任講師になるというシステムで,いきなり研究室を持つ形で生産技術研究所に採用されました。実は電電公社などからもいろいろ話があったりしていたのですが,やはりアカデミックな場所で研究を続けることに意義を感じていました。それで,専門の転換という要求を飲んで,といいますか,実はその当時,私自身も通信路にちょっと限界を感じていて,少し飽きていたこともあり,ちょうどよい機会と考え就職を決めたのです。
 実験で研究ができるというのは,すごく意義があると思いましたし,今までは数学としての研究でしたので,物理としての光の研究ができるというのは,研究者としての今後の展開にとって意義があると思いもあり,ポジティブに転向しました。
 そういう思いで光デバイスの研究に入りましたが,実際には,教科書としての量子力学はかなり理解していましたが,実験は全く未経験であり,いろいろと非常に戸惑ったことを覚えています。
 私が就職する直前の生産研究所には,齋藤成文先生,濱崎襄二先生,藤井陽一先生,それから榊裕之先生がおられて,斎藤・榊が「S」で,濱崎が「H」で,藤井が「F」で,研究グループ全体として「SHF(Super High Frequency)」と呼ばれていました。そんな中に私,「A」が入ってきて,形が崩れてしまい(笑),「SHFA」とか呼ばれたこともありました。
 ともかくそういうことで新たに研究室を立ち上げましたが,今申し上げたように右も左も分からないことだらけでした。濱崎先生から言われたのは,2年で自立しろと。1つの明確な成果を2年で何か見せないといけないよと言われ,かなりショックを受けたことを覚えています。直接の上司の藤井先生は広くゆったりと眺めて,あまり何も言われなかったですね。その当時,いわゆる光ファイバーや,三次元ディスプレイの研究といった,以前からのオプテックス,つまり電磁気学に立脚した光学が大きな分野を形成していました。私に期待されたのは,これらに近い光情報デバイス的な研究であったように思われます。
 そのころ通信波長帯半導体レーザーの研究が大変盛んでした。私の大学院時代の研究テーマだった通信理論は,雑音をベースにした世界なのです。もし雑音がなければすべての情報が誤りなく送れますので通信容量は無限大となります。そういう意味で,雑音という概念は非常に重要なのですが,これは物理に立脚しています。いうまでもなく,もっとも光デバイスで関係の深いのがレーザーであったわけです。ということで,アクティブデバイスである半導体レーザーに取り組むのが一番おもしろそうにみえました。
 後,専門を変えるなら徹底的に変えたいとも考えていました。量子論に基づくレーザーは,私にとって物理に立脚した電気工学の観点から満足させるものですし,材料の課題も入ってきます。ということで,新しい世界である半導体という世界に飛び込もうと決めました。
 とは言ってもその当時は通信波長帯のレーザーで,東京工業大学の末松安晴先生のグループが圧倒的に強かった。世界的にも通信用レーザーに非常に大きな流れがあり,少々戸惑うところがありました。学会に出ても誰も知らないわけです。知識は教科書や文献を読めば分かりますが,学会では人が分からないと交流もできませんから。そういうことでちょっと大変でした。一方,生研の中では,すぐ隣に榊研究室が活動されていました。
 榊先生は電子デバイスを中心に研究を行っていました。特に江崎玲於奈先生のところで量子効果の研究を本格的に始めて,私が就職したころにはMBE(分子線エキピタシー)法の装置を立ち上げて活発に研究を開始していました。榊先生に年齢が近いこともあり,それから先ほどの同じSHFグループということで,先生の実験室に出入りし,私にとって未知の世界であった半導体の取り扱いの体験を,場所を借りてやらせていただいたりと,いろいろお世話になりました。一応荒川研究室ということで自分の部屋はあてがわれたのですが,もちろん何も設備はありませんでした。
 その中で,半導体で何をやろうかと考えた時に,いろいろ論文を見ていると,量子井戸レーザーというのがちらちらと出ているのに気が付きました。主にイリノイ大学,あるいはベル研究所が中心でした。イリノイ大学のホロニャック先生が,その分野では非常に有名でした。フォノンが絡んだレーザー励起が起きているとか,いろんな議論もされていて,非常に興味がわきました。
 それに加え,その時点での半導体レーザーの研究の主流は通信用レーザーでしたが,これを研究するには,あまりにも大きな流れが既にあってどうにもならないという思いもありました。また,そういうこともあり量子効果を伴うレーザーに関心を持ち,それが大変意義があるということが次第に見えて気になってきました。
 電子の運動の自由度をもっと落としたら,レーザー特性はどうなるのだろうということを考え始め,そういう議論を榊先生としながら,実際に計算をしてみようかということで,量子ドットレーザーの研究がスタートしたのです。

特に注目されなかった「量子箱」

荒川:研究の体系として設定したのは,電子の閉じ込めの次元を変えた時に,半導体レーザーの特性に生じる変化を理論的に検討することでした。まず,電子の閉じ込めの次元と閾値電流との関係を明らかにしました。アイデアや基本的な計算自体は1980年の末にはできていて,1981年3月には,量子ドットレーザーについて応用物理学会春の講演会で発表しました。APLの論文は1982年春に出版されましたが,研究としての最初の公表という意味では81年の春ということになります。
 多次元量子閉じ込めに関する実験的検証として,磁場の実験も行いました。半導体レーザーを強磁場に入れると,電子の次元が2つ下がります。量子ドットを実現することはできませんでしたから,普通の半導体でもできる実験として磁場を用いることにしたのです。当時は東京大学の生産技術研究所と物性研究所が,同じ六本木のキャンパスに同居していましたので,超強磁場の研究をされていた三浦登先生のところで実験をやらせてもらいました。半導体レーザーについては,現在JST理事長で当時日立中研の中村道治さんやNTTの岡本紘さん(故人)にいただきました。強磁場発生装置における,サンプル空間は7ミリ程度で非常に狭くて,レーザーの配置や光の取り出しとか,そういうことに苦労しました。しかも,液体窒素に浸されているので,独立した真空の空間をつくる必要がありました。光は,当時出始めたバンドルファイバーが導入して取り出しました。あの狭い空間から光を取り出すなんていう実験は誰もやっていなかったので,光ファイバーを導入したのはわれわれが多分初めてじゃないかと思っています。温度制御もする必要がありました。サンプルホルダーの作製については,技官として荒川研究室に着任した西岡政雄君の工作力が重要でした。そういった苦労を経て実験を行い,温度特性の改善も観測できたので,実験結果も含めて1982年の5月に論文としてAPLに出版しました。
 1981年になってから,他の研究会でも量子ドットレーザーについて講演したりしていましたが,量子ドット,その当時は「量子箱」と言っていましたが,そんな構造は熱力学的に安定であるはずがない,といった批判も受けました。私自身も量子ドットをどう作ればいいかというのはもちろんわからなかったので,ごもっともなご意見,として受け入れざるを得ませんでした。
 その後も詳細な磁場の実験はしていましたが,1983年ごろに日本学術振興会が海外特別研究員という制度を始めました。毎年10人選んで海外に2年間派遣するというものでしたが,それはポストというよりは,むしろ大学に既に職を持っている人が出張の形で派遣されるものでした。選考は激戦でしたが,最初の採用者グループの1人として派遣を決めてもらいました。これが実に有り難かったですね。
 そこで在外研究を行った研究室が,米国カリフォルニア工科大学のアムノン・ヤリフ先生のところでした。最初はホロニャック先生に手紙を書いたのですが,外国人は受け入れないということで断られまして。それならヤリフ先生のところ,ということで,以前ヤリフ研でDFBレーザーの研究をされた,先ほどの中村さんらに推薦状を書いていただいて行くことになりました。結果的には,それが非常に良かったです。ヤリフ先生の研究室は,その当時はもう最盛期でした。当時,APLは,非常に薄い冊子で厳選された論文が掲載されるすごく良い雑誌でした。そこにほとんど毎号に1つは論文が出ているような,大変な研究グループでした。
 そこに1984年の2月1日から行きました。最初は何をやろうかとじっと考えていたのですが,ちょうどヤリフ先生のところに,今はナノ共振器やフォノン制御で非常に有名なったケリー・バハラ教授が大学院生としていまして,半導体レーザーの雑音理論を研究していました。私はこれを参考にしながら,量子効果と雑音特性の関係を明らかにする理論計算を始めました。量子井戸レーザーのみならず,量子細線レーザーや量子ドットレーザーを含む理論の論文を書きました。
 カリフォルニア工科大学に着いてから,およそ3ヶ月間でその計算をして,その論文がAPLに採択されました。それがアメリカに行っての最初の論文です。量子効果が雑音特性及び変調特性の改善に極めて有効であるということを示した論文なのですが,これが非常に受けまして,日本を含め世界中からかなり注目されました。
 ヤリフ研究室から出た論文というのも注目度を上げた要因の1つと思います。これに伴い,無名だった82年のAPL論文も少しずつ知られるようになりました。それから実際に量子井戸レーザーをヤリフ研で自分で作り,そのレーザーを,ボストンのMITのマグネットラボに持っていき,磁場の中に入れて変調実験や雑音特性を調べる実験などを行いました。2年間いて15件くらい論文を書きましてが,その当時としては数が多かったです。

 そうして日本に戻って,まずは量子井戸レーザーについて,変調ダイナミックスや長短パルスとか,基本特性を解明するような実験をはじめました。でも,そのうちにやはり本当に量子ドットを作るべきだという思いがありましたので,自分で結晶成長をやりたいと考えるようになりました。
 当時,榊先生の研究室ではMBEの結晶成長装置を核にして研究室が非常にまとまってきたというのを横で見ていましたので,それなら私はMOCVD(有機金属気相成長)法でやってみようかなと考えたのですが,お金がとにかく要るわけです。はたと困ったわけですが,当時は大学に大型の予算が概算要求という形で出て付いたりしました。たまたま,今キヤノン副社長の生駒俊明先生が生研の若手教授で, 当時としては超大型の予算を文部省から獲得しましたので,その中からMOCVDを購入しても良いよということになりました。ただここでも条件が付きまして,少し普通とは違うこと,一工夫するようにと言われました。それで,電子線を当てながら局所的に結晶成長をさせて,量子ドットを形成するという電子線CVDを行うということでMOCVD装置を導入しました。ただ,反応室を2つに分けて,電子線CVDと併せて通常のMOCVDもできるようにしておきました。それが良かったのです。お金の工面は大変でした。当時だからできる資金繰りを行いました。電子線CVDによるナノ構造の形成は,現在,生研教授で,当時大学院生の高橋琢二君に取り組んでもらいました。MOCVDによる量子井戸レーザーのダイナミックスの研究は,現在NTT基礎研所長で当時大学院生の寒川哲臣君や西岡君が担当しました。
 MOCVDの研究を始めて, 量子ドットの本格的作製の研究を開始したのが1989年ごろです。1990年ぐらいに量子ドットを作り始め,それ以降は本格的にナノ技術としての結晶成長と,それからデバイス物理とその作るものを共有しながら研究開発を行ってきました。量子ドットや量子細線の作製については,当時大学院生で現在阿南高専教授の塚本史郎君や助手で現在産総研の永宗靖君の貢献が大きかったといえます。それ以来自分のところで半導体のナノ構造を作り,そして,自ら量子光学あるいは固体物理としての実験を行うスタイルになっています。
 量子ドットを作るとともに,微小共振器の作製にも取り組みました。1993年ごろにクローデ・バイスブーシュさんというフランスの非常に優れた半導体光物性屋さんが私の研究室に滞在し,いわゆる共振器ポラリトンの効果を見つけました。それができたのも,半導体の結晶成長装置の技術を確立していたというのが大変大きなことでした。ですから良い結晶成長技術,あるいはナノ技術を持つことは,新しい物理学を展開できるために大切なことなのです。共振器ポラリトンの研究は,まさにそのよい例だと思います。
 この発見はすごくインパクトがありました。量子ドットに関する最初の1982年のAPL論文は, 今では2,400回くらい引用されていますが,この成果を発表した1992年のPRLの論文も1,500回くらい引用されています。だからそういう意味では,この2つは私にとって基本的な論文となっています。
 94年ごろには富士通研究所やNECでも量子ドットレーザーの研究を開始していました。前者では向井剛輝さんが,後者では西研一さんが結晶成長に当時一生懸命取り組んでいることを思い出します。それからヨーロッパですとベルリン工科大学を中心に活発に研究が開始されました。だんだん量子ドットの研究が,少しずつですが高まってきたかなという気がししたが,それでも量子ドットレーザーは,物理の基礎としてのレーザーであり,実用には程遠いと思われていましたね。
 そのころGaN系半導体の研究も開始しました。1997年に現在工学系研究科教授で,有機エレクトロニクス研究で大変有名な染谷隆夫君が,大学院を卒業して最初は助手,その後講師,助教授として参加してくれましたので,一緒に相談しました。フォトニック結晶をやるかGaN系半導体をやるか,などの議論を経て,結局GaN系半導体で面発光レーザーを作ろうということになりました。その頃には,研究室に少しは予算がありましたので,GaAsの結晶成長に用いていた初代のMOCVD装置を大幅に改造して,GaN系半導体のMOCVD装置にしました。すごく難しい結晶成長でしたが,染谷さんが素晴らしい力量を発揮して面発光レーザーの発振をやり遂げました。なお,最近我々は単一量子ドットレーザーの実現に成功しNature Physicsに報告したのですが,このテーマも,染谷さんと話し合う中で,めざすべき究極の研究の一つと位置付けていました。ただ,すごく難しいね,というのが当時の感触でした。
 並行して,GaN半導体の量子ドットの形成の研究も開始しました。これは,現在東芝の当時大学院生であった橘浩一君が主として担当しました。このようにして,私の量子ドットの結晶成長は,以来,GaAs系量子ドットと,GaN系の量子ドットの二本立てとなりました。なお,フォトニック結晶については,染谷さんが本郷に移ったので,その後任として来てもらった,現在生研准教授の岩本敏君に取り組んでもらいました。ちなみに,彼は,当時生研の教授の黒田和男先生の学生さんでしたが,うちのMBE装置で研究をしていたので,よく議論していました。岩本さんは,素晴らしいパートナーとして,以来一緒に研究室を運営してきています。

世界をけん引するプロジェクト「FIRST」

聞き手:量子ドットレーザーの今後の研究展開についてお教えください。

荒川:2000年ごろから,経済産業省や文部科学省による国家プロジェクトの話が出てきました。これにはいろいろ伏線があります。1996年ごろから私が中心となって光テクノロジーロードマップを光産業技術振興協会で策定を開始しました。一方,1996~97年ごろにJEITAで,俯瞰的な視点で全体の技術の領域を見て方向性を定め,ロードマップ的俯瞰の下でエレクトロニクス全体の国家プロジェクトをやるべきだという,田中昭二先生(故人)や主たる電気系企業の役員と一緒に提言を出しました。
 そうした流れの中で,2002年に文部科学省のプロジェクト「ナノ光電子デバイス」と,経済産業省のプロジェクト「フォトニックネットワーク技術開発」の2つが,省庁間連携の連携国家プロジェクトとして始まりました。ナノエレクトロニクス連携研究センターを生産技術研究所に設置して,新しい形の産学連携の研究開発を開始したのです。その中にはいろいろなテーマがありましたが,その中の1つの目玉として量子ドットレーザーの開発が含まれています。参画企業は,NEC,日立製作所,富士通研究所でした。
 2000年ごろというのは,それ以前は光はとても調子が良かったのですが,バブルがはじけて大幅に落ち込んだところでした。富士通やNECも量子ドットレーザーの研究開発を行っていましたが,企業としてのプロジェクトを継続することは非常に難しい状況でした。そういった時に国家プロジェクトが始まったのです。特に富士通研との連携が緊密であり,現在QDレーザ(株)社長で当時富士通研で量子ドットレーザー研究グループを率いていた菅原充さんには,客員教授になってもらいました。その結果,2004年には,1982年にAPLで予言した,温度安定性の良い量子ドットレーザーを実現することができましたが,これが1つの大きなエポックメーキングになったと思います(図1)。

図1 2002年に富士通研究所と共同で実現した量子ドットレーザにおける閾値電流の温度無依存

 そして,この技術は実用になり得るだろうということで,2006年にQDレーザー社が富士通のスピンオフカンパニーとして発足しました。2002年から始まった文科省のプロジェクトと経済産業省のプロジェクトがきっかけになって,このQDレーザー社が発足したといえます。そのプロジェクトは全体として5年プロジェクトでしたから,2002年に始まって2007年の3月に終わりました。
 一方,2006年度から新たに文部科学省として,さらに大きなプロジェクトが始まりました。それが「先端融合領域イノベーション創出プログラム」という拠点形成プログラムであり,ここで「ナノ量子情報エレクトロニクス研究拠点」という今も続くプロジェクトが発足しました。これは10年プロジェクトで,その1つの大きな柱が量子ドット技術であり,量子ドットレーザーを中核にさらに発展を期すということです。総額およそ60億円規模のプロジェクトで,これに企業からのマッチングファンドがつきます。参加企業は,先ほどの3企業とシャープ(株)です。また2002年のプロジェクトでは,量子ドットレーザー以外にも量子暗号や量子コンピューターに向けた量子単一光子発生装置等の開発も開始しました。素子開発などをするための基礎的な準備を行うことも含まれていました。この研究領域についても,システム実験を含め先端融合プロジェクトでさらなる発展を目指してきています。
 また,先端融合プロジェクトでは,フレキシブルエレクトロニクスや,量子ドット大雨用電池,センサー用量子ドットの光検出器などもターゲットに入れて研究開発を行っています。
 量子ドットレーザーについては,順調にQDレーザー社での展開が行われており,2011年ごろから市場化がなされ,2013年の時点で150万個以上の量子ドットレーザーが市場に出ました。
 また,2009年に最先端研究開発支援プログラム,いわゆるFIRSTのもと,光電子融合プロジェクトを始めました。これはLSIの将来のあり方を考えた時に,コンピューティングシステムでのLSIチップ間通信において,光インターコネクションが必要となる時期が間もなく来るであろうということで,それに対する基盤研究と,システムデモンストレーションを実現しようというプロジェクトです。
 FIRSTプログラムでは,5年間のプロジェクト開発を産学連携で推進し,システムデモンストレーションとして,光インターコネクション集積システムの世界最高の帯域密度伝送を実現しました。また,プロジェクト最終段階で,量子ドットレーザーを搭載した光集積回路を実現し,全く無調整で125℃まで高速光伝送を達成しました(図2)。

図2 量子ドットレーザー搭載型シリコン光インターポーザにおける125℃までの無調整光速光伝送動作の実証(FIRSTのプロジェクトの成果)

 いよいよLSIと光の融合が始まる時代になってきて,しかも量子ドットレーザーを搭載することにより,世界をけん引する「FIRST」プロジェクトを実施できたことは,大変意義のあることではないかと思います。このプロジェクトでは,組織の壁を乗り越えた連携開発がキーとなっていました。

失敗しても,それは後で役に立つ

聞き手:研究・開発プロセスにおいて,自信を喪失されたり試行錯誤して苦悩された苦いご経験がありましたら,ぜひそのエピソードをお聞かせください。

荒川:そうですね。常に研究者は迷うと思っています。例えば,私が大学院で研究を始めた時も,先生がそんなに指導してくれませんでした。大きなテーマとして光通信をやれ,とは言われましたが,それ以上のことは方向は定まりませんでした。それで卒論の経験もふまえて,信号空間を情報空間として抽象化していこうとか,そういうことを自分で考えるわけです。そういう意味で,通信理論の場合には,自分が解くべきものが何か,あるいは具体的なテーマそのものの設定に,半分ぐらい時間を費やすのではないでしょうか。それは,光通信という山脈の中から自分が登るべき山を霧の中から手探りで探し出して見つけるという感じです。もちろん登るのにも苦労するのですが,その前に登るべき山,頂上に達することができそうな山をどれにするかというのが,極めて重要だったと思うのです。
 一方,デバイス系を研究してみて思うのは,大きな流れで言えば,登るべき山はなんとなく共有されていて,皆が一生懸命いろんな形でアプローチして登っているという感じはあります。とは言っても,どう登るかということで皆個々に苦しむわけです。
 大学に就職して,すごく大きな山として多くの人が半導体レーザーを登っているのを目の当たりにして,どんなやり方で半導体レーザーに取り組むかということにまず苦しみました。その中でいろいろと試行錯誤を繰り返す内に,量子ドットという概念が出てきて,登るべき山が少しだけ見えてきたのです,しかし,このような量子ドットが実現できるかと言ったらできる見通しは全くなかったわけですから壁がすぐ目の前に立ちはだかったことになります。そのときどうしたかというと,大きな意味での半導体レーザーという山に対して,複数のアプローチを考えます。ある方法が駄目でも別の方法でやっておこうと。逃げるわけではなくて,パラレルに研究を進めていくのです。もちろん,将来的には量子ドットレーザーを実現する,そういうことを頭に置きながら当面できることを行ったのです。例えば磁場実験などです。つまり,個々の壁はいっぱいある。壁だらけなのですが,テーマ全体としての取り組みとしては,前進できるように努力したつもりです。多面多様な登り方をすることで,やることに困ってしまってどうにもならなくなったという感じは,あまりないですね。ともかく,おもしろかった,というのが今の時点でも思い出です。
 私は理論もしましたし,実験もしますので,理論が進まない時には実験をやれば良い,その逆もありました。また,例えば室温単一光子発生素子を目指して,長年GaN量子ドットをプレーナ基板上に作ろうとしたのですがなかなかうまくいきませんでした。そこでそれをいったんやめて,ナノワイヤ上に形成してみました。そうすると基板から離れたことですごく品質が良いものができました。その結果,室温で単一光子の発生に成功しました(図3)。もちろん,この成果は,有田宗貴特任准教授ら研究室のGaNグループが頑張ったことにより得られたものです。

図3 室温単一光子発生を実現したGaN/AlN ナノワイヤ量子ドットと光子相関測定結果

 つまりアプローチを変えることで壁というのは乗り越えるのではないかと思うのです。迷路と同じで,ある程度中へ入って行き止まりになった時に,少し戻って別の違うところからまた進んでみると。研究テーマそのものが難しくて,ターゲットを変更するのが良いのか迷うこともありましたが,手を変え品を替え推し進めていると,新たに開ける時があるわけです。先ほどの高品質GaN量子ドットなどもそういう例だと思います。
 理論計算でも同じで,理論というのはトライアルをいっぱいするのですが,そうしてあるところでポッとうまくいく。だけどそうなるためには,それまでのトライアルがすごく役に立っていることが多いのです。だから失敗しても,それは後で役に立つんだと思えば良い。
 そしてそれはまさにビジネスにも同じことだと思います。よく,ベンチャービジネスで何回か失敗してようやく成功するという話を聞きますが,それもいろんなトライアルの中で出てきたからこその学習効果であると思いますし,駄目なものは駄目だという判断をするのにも重要です。これでやっていて駄目だったら,あれもやる。それを乗り越えられると信じて進んでいくことが必要だと思います。

光もワン・オブ・ゼムという視点でいろいろなものと融合を図っていく

聞き手:最後に若手研究者や学生さんに向けて,光の面白さや魅力についてメッセージをお願い致します。

荒川:光だけではなく,いろいろな分野との融合がこれから図られるであろうと思います。これはまずは用途としての融合で,光インターコネクションなどがあります。それからいろんなセンサーや,あるいはバイオ関係といった応用も広がっています。一方で物理としては,光子,電子とかあるいはフォノンとか,それらの統一的融合が図られることによって,また新しい概念が生まれたりするという状況が考えられます。  ですからこれからの光の研究者たちには,積極的にいろいろな他の分野との融合をはかるとともに,応用分野としていろいろ展開を図るというのが重要で,そういうところを担っていってもらいたいと思います。そしてその時に,決して光が中心ではなくて,光もワン・オブ・ゼムだという俯瞰的視点を持ちながら,いろいろなものとの融合をめざすと的を射た応用や学問分野の開拓というのができるのではないかなという気がしています。
 常に1つのことを突き詰めること,そして時々それを俯瞰し,あるいは横で見て視点を変えて,新たなトライアルをしながら一貫して前進して行くことが重要だと思います。エレクトロニクスは相変わらず強いですが,これからは光抜きではエレクトロニクスやコンピューティング技術も語れなくなる時代が本格的に進んできています。その中でわれわれが想像しないようなクリエーティブなことを,若い人たちは考えてくれると良いと思います。なかなか大変ですけど(笑)。

(O plus E 「私の発言」2015年1月号, 9~17ページ掲載。
ご所属などは掲載当時の情報です)


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