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「東京春祭2022」柴田のカンペ

4月18日、東京・春・音楽祭2022(以下、春祭)でアンソニー・ロマニウクと一緒に演奏しました。あの日のテーマは「シームレス(=境目のない)な多様性」でした。携帯電話にメモっていたので、読み上げようとしたのですが、舞台の上でテンパってしまって、上手く読めなかった文章です。

(一礼)皆さま、こんばんは。柴田 俊幸 です。無事帰って来れて良かったです…。そして今から、東京文化会館で演奏できるのを本当に楽しみで仕方ありません。実は東京23区デビューです(笑)このホールの壁についている凸凹は彫刻家の流政之さんの作品ですが、彼は僕がいたNYや香川にもとってもご縁がある芸術家でして、ご存命中には高松で一緒にタクシーに乗って話したこともあります。なんだかご縁を感じるところです。

さて、本日は元々、オール・バッハ・プログラムを予定していたのですが、急遽変更し、色々な音楽を混ぜました。テーマは「シームレス(=境目のない)な多様性」です。

最近、日本に帰ってくるたびに、多様性という言葉を耳にすることが多くなりました。婆ちゃんが見ているテレビ番組でも、いろいろな人やモノの「あり方」を紹介するのですが、それが一つ一つ「ラベル」を付けているように見えて仕方ないのです。たとえば、SDGsという言葉の使われ方も同じで、テレビで連呼されるたびに考え方を刷り込んでいるように強く感じます。これもあるし、これもある、それもいいし、これもいい。あの言葉を使ったり、バッジをつけたりすることで何だか免罪符になっているような気がして、本当の多様性が理解されるわけではないように思います。我々が住み、愛するヨーロッパには、時代を超えて多数の文化、人種が混在してきました。それが故に、数えきれないほどの「色」が虹のようにグラデーションとして存在し、隣の人が自分と違っていていることを遺伝子レベルで当たり前のことだと理解しています。自と他の境界線が滲んでいるのです。

私ごとですが、1月の中盤にコロナを患ったのと自身の心労に加え、ウクライナの戦争も始まり、心がズダズダになりました。「世界はコロナと戦争で分断されたけど、芸術には世界をつなぐ普遍的な力がある」そんなメッセージを届けられる演奏会にしたいと思い、事務局の鎌子さんにプログラム変更の依頼をしました。

演奏する音楽は中世から現代、およそ600年分です。そしてジャンルだけでなく使用楽曲もクラシックから飛び越えてみました。そして、曲間はほぼ全て即興で繋ぎます。なので拍手も最初と最後だけで構いません。曲間で拍手をするという、クラシックの演奏会の「当たり前」も壊してみたかったのです。チューニングもせず、前半後半をそれぞれ一筆書きで演奏することで見えてくる、そこには昔の音楽も今の音楽も存在しない、シームレスな音の連続。バロック(Baroque)、コンテンポラリー(Contemporary)の仕切りがない、「B to C」ではなく、「B=C」の世界を目指しました。東京オペラシティさん、ごめんなさい(笑)。

古楽祭を5年間やってきたことは、確実に今晩のプログラム構成に影響を与えたと思います。チック・コリアが入っていますよね。なぜクラシック音楽とそれ以外の音楽の間には、越えなくてはいけない壁があるのでしょうか? 音楽の中で、いつからクラシック音楽はハイカルチャーなものとして「敷居」が存在するようになったのだろう?この既成の敷居は、クラシック音楽ファン以外の人間をコンサートホールに近づけようとはしてきませんでした。将来の聴衆が減るのは仕方のないことなのかもしれない、とまで思ったこともありました。

「古楽」という切り口は、クラシック音楽界の“秘密道具”になるのです。まだクラシックがハイカルチャー化する前の音楽として、古楽は他のジャンルの音楽とクラシック音楽の結びつきを再発見させてくれます。今回の春祭のコンサートでは、クラシック音楽に馴染みのない人が聴きにきても違和感が感じないように、古楽というジャンルを軸にして、いろいろな仕掛けを作ってみました。

J.S. バッハの音楽は多くの人の目にはコンサバに見えますが、実はとてもプログレッシブ(progressive:進歩主義的)なものです。伝統を全て取り込んでは“革新の音楽”を書き上げる、バッハは後ろ、つまり過去を意識しながら前を見ていたのです。読売新聞の松本良一記者によるインタビュー記事では、最近ロマニウクと録音したJ.S. バッハのCDについて「プログレッシブ古楽」という言葉が使われました。それは60−70年代、かつてのプログレッシブ・ロックがロックと他のジャンルの融合を目指したのを意識しての表現だったと思います。

結果的に、今宵のプログラムがそれに近いものになったことは事実ですが、他のジャンルとの融合や、たくさんの楽器を演奏すること自体が目的ではありません。多様になるための多様性はやめるべきなのです。それは濫用であり、とてもチープに感じます。

果たして我々のCDは名演だったのか?と問われると、わかりません。あそこまでやるんだったら普通のフルートとピアノでいいじゃないか、という意見もあるかもしれません。ただ、我々は古楽器という、現代の楽器とは違った表現技法を駆使して演奏する楽器で、プログレッシブなものを作りたかった。

このCDを聴いた、とある邦人の古楽器奏者に「君たちは間違った方向に行っている」と言われました。その意見もとても理解します。我々の録音は「The古楽」いわゆるスタンダードな奏法から外れたことをしたのですから。

とは言っても、我々はスタンダードな古楽奏法が出来ないわけではありません。古楽に最大のリスペクトを持った上で、そこから枝分かれした「新しい音楽」を作りたかった。そこにはバッハが当時の古い音楽と新しい音楽を折衷して彼の音楽を作り出したと同じ精神性があるのです。固定観念からの脱却という、古楽の精神の復活なのです。

とっても長くなりました。最後になりますが、今回の演奏会の機会を与えてくださるだけでなく、フェンダー・ローズを見つけるのに尽力いただき、前日までプログラム変更を受け入れて下さった東京・春・音楽祭実行委員会、そして事務局の皆さま、ありがとうございました。ロマニウクが無事入国し、高松の実家で婆ちゃんの味噌汁を食べて、綿密にリハをし、本日、この場に立てることを、本当に幸せに思います。

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