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エゴは添加物

先日、Facebookで、インタビュアーがゲストスピーカーにコテンパンにされるのを目撃した。

インタビュアーはSNSで多くのフォロワーもいるアメリカ人の音楽家。

一方、ゲストスピーカーはベルギーの王立音楽院の元教授(古楽系)。

インタビュアー側が知識不足(特にハーモニー)で、質問→答えという一方通行が多く、いろいろと噛み合ってなかったのが残念だった。

その中でも、装飾法について、次の答えは強烈だった。

"If you want to play differently in order to be different.. that’s childish."

 (もしも、あなたが人と違うようになりたくて、違う演奏をしたいのであれば…。それは幼稚なことだ。)

僕自身、アメリカでは「人と違うことはいいことだ。」と教わってきた。どうしても先生と解釈が合わなかった時に、ソプラノ歌手の友人に「それはとてもいいことよ。個性の表れだから。」と励まされたこともある。

一方で、長い間、この「人と違う」ということにおいて、どうも腑に落ちなかった。

表現者として、人と違うべきである、というのが逆にプレッシャーになったこともある。

そんな中、彼のこの言葉は、私がベルギーに移住して気がついたことを、うまくまとめてくれた。

人と違うことはいいことだけど、それが目的になってはだめ。

インタヴュアーは必死に、演奏家の「個人としての表現の自由」について聞き出そうとしたのだが、それはすでに作曲された音楽、とくにバッハなどの神に近い作曲家の前では、もちろん最優先ではない。

もちろん、主観に重きをおくロマン主義が開花すると、そのコンセプトもひっくり返る。

ロマン主義以降の色眼鏡で、全ての音楽を演奏するべきではないと同じように、古楽の頃の文化やレトリックでロマン主義以降の音楽を扱うべきではない。

ただ、どの時代でも、エゴに溺れた演奏というのは、どうなんだろう?

添加物たっぷりのお菓子を、僕は食べようとは思わない。


個性(違い)は認めるけど、それは音楽と真摯に向き合い、その結果、内面から出てくるべき。

古楽器奏者だけじゃなくて、再現芸術をする演奏家すべてに通用するのでは、と思った。

もう引退されたけど、とある音楽家に「日本の伝統工芸品は本当に素晴らしい。それぞれ個性的なんだけど、エゴがない。そんな演奏がしたい。」とコーヒー飲みながら、さらっと言われたことがある。

エゴは添加物。ベルギーに移り、僕が学んだことの一つです。

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