5・6番歌 ホームシックはよく燃える/万葉集絵日記
万葉集調べもの録。今回は、行幸にお供した人のお家が恋しい歌。前回と同じく「長歌+反歌」の形式。
霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら嘆け居(を)れば 玉だすき かけの宜しく 遠つ神 我(わ)が大君の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居る 我(あ)が衣手に 朝夕(あさよひ)に 反(かへ)らひぬれば ますらをと 思へる我(あれ)も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひそ燃ゆる 我(あ)が下心
山越しの 風を時じみ 寝る夜(よ)おちず 家なる妹(いも)を かけて偲(しの)ひつ
*拙訳* 長い春の日も暮れた どうしたものか 傷心に浸り嘆いている私は さぞ天皇の行幸に似合わしい事だろう 山を越して来る風が 独り居る私の袖をはためかせる 一人前の男と思っていたが 旅に身を置けば 思いが募る どうしたものか 海人の乙女達が焼く塩のように 本当は燃える思いだ
絶えず山越の風が吹いてくる 毎夜 家にいる貴女を 懐かしく思う
※「わずき」は語義未詳。
※「かけの宜しく」の解釈は諸説あり。今回は好きなように訳してみた為、あまり見ない仕上がりになった。
舒明天皇の頃、讃岐国の阿野郡へ行幸したときに軍王が山を見て作った歌。題詞にはそうある。舒明天皇が讃岐国に行ったという記録は他にない。その為、この行幸については不明である。軍王が何者かも分かっていない。
それにしても長い。長すぎる。29句あるという。この前まで五七五しか知らなかった身にとっては千里の道であった。修飾や細かな描写が多くて分かりにくいので、少々乱暴だが削ぎ落として考えてみる。
( )は枕詞。「遠つ神」は違うという意見もある。
長歌はいつからあるかハッキリしないが、記録としては記紀歌謡に遡ることが出来る。文字が無い頃も歌われていたに違いなく、川を下る石が形を変えるが如く姿を変えた。短い言葉と長い言葉を交互に繰り返して、リズムや抑揚をとる事は長い間共通なようだ。取り巻く環境の変化(何処でどうやって披露したか、渡来した文芸の影響、文字の普及と利便化などなど)との相互作用の末に衰退したと考えられる。
阿野郡の臨海地域は今の坂出市あたりだ。世界観構築のために綾北平野を採用した。私の中では天皇一行はこの平野に滞在し宴会とかした事になっている。
長歌の方には思いの対象が書かれていない。反歌でやっと妻が出てくる。だからその空白地帯に諸々敷き詰める事になるのだ。天皇への思いか?職場の人間関係に嘆いているのか⁈自分の職務に思うところがあるのか?と。そこへ妻が降臨する。曖昧で長々しい歌とストレートな反歌。拍子抜けする程のギャップが堪らない。
参考資料
長歌の衰退についての一考察 石田公道 北海道教育大学紀要 第1部 A 人文科学編 26(2), p1-11, 1976-02
「不歌而誦」と「讀歌」と「賦詩」 : 賦と長歌の発生についての比較 孫 久富 相愛大学研究論集 巻16 p232 - 215 2000-03
香川県ホームページより 香川県埋蔵文化財センター パンフレット「史跡 讃岐国府跡」
軍王の歌 ―舒明天皇代の行幸歌― 影山 尚之 武庫川国文 巻88 p13 - 23 2020-03-20
軍王の万葉歌と城山 竹本 晃 大阪大谷大学歴史文化研究 号18 p93 - 83 2018-03
万葉集「懸け」の事例について(前篇) 福沢 武一 長野大学紀要 巻2 号3-4 p137 - 147 1981-03-01
万葉集「懸け」の事例について(後篇) 福沢 武一 長野大学紀要 巻3 号1-2 p135 - 143 1981-09-30
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