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どうやって理科の問題を解くか「理科の問題演習」と「科学的な見方や考え方」について

noteを書くのはお久しぶりです。ちょっとお仕事が忙しくなるわ,少しお仕事が落ち着いたかと思ったらNintendo Switchで『天穂のサクナヒメ』なる稲作ゲームが出るわで,しばらくそちらの方にかまけておりました。理科教育アドベントカレンダー2020の告知を見かけたので,復帰(?)のいい機会と思い,久々にキーボードを叩いています。これまでnoteに書いたことと大きな重複もありますが,何卒ご容赦ください。

私は,不肖,大学受験生に生物を教えることを生業にしている人間です。その立場上,表立った目的は受験本番で高得点を取らせることです。しかし,文部科学省も理科の学習指導要領の中でうたう通り,小中高の教育の中で培われるのは「得点を取る力」ではなく,必要十分な知識・技能の習得は前提とした「科学的な見方や考え方」でしょう。然らば,大学受験生物で出題される問題には,科学的な見方や考え方を身につけることができれば,結果として高得点が取れるようなつくりであることが望まれるのではないか―と考えています(果たして私に科学的な見方や考え方ができているのかということは,これからもずっと自問していかねばならないのですが,それはまぁ,ここではノータッチです)。

中には,重箱の隅をつつくにも程があるだろうという知識問題が見られることもあります(その大学の関係者が取ったノーベル賞受賞テーマについて,「当然調べてますよね」といわんばかりの出題をおっと誰か来たようです)。大学側がこういうことをするから生物の学習参考書の類が分厚くなっていくんじゃないか―そして学参に載っているという理由で他の大学も追随して出題するという負の連鎖があるんじゃないか―と,大した根拠もなく一人でブツクサ言うこともあります。昨年夏,日本学術会議からは「高等学校の生物教育における重要用語の選定について(改訂)」という報告もなされ,高等学校の生物教育で学習すべき用語を精選する空気も,少しずつ醸成されているのではないかと思います。私個人はこの流れに期待しているところもあり,来年1月から実施される大学入試共通テストでどのような出題がなされるのかということも含めて,今後の動向にアンテナを張っておきたいところです。

まぁいつものごとく長くなる前置きはこのへんで。

先程,「大学受験生物で出題される問題には,科学的な見方や考え方を身につけることができれば,結果として高得点が取れるようなつくりであることが望まれる」と書きました。受験生は教科書を読んだり,問題演習をしたりして科学的な見方や考え方を身につけます(そのはずです)。問題演習は科学的な見方や考え方を訓練する場の1つであり,訓練とは往々にして,多少の例外はあれど多くの人でそれなりにうまくいく方法があるものではないでしょうか。

本稿の表題でもある「どうやって理科の問題を解くか」とはどういうことか。まず,他ならぬ私自身が,その訓練をどのようにこなしてきたかを言葉にすることで,問題を解いているときの私の頭の中を,できる限り,学習者の方々に見える形にしたいという意図をこめています。言葉にできないものは人に伝わりませんし,人に伝えられないのなら私はいったい何で以て生活費を稼いでいるのか分かりません。私が「いかにして問題を解いているか」を人に伝えるためには,まずは私自身の頭の中がどうなっているかを言葉にしなければならないのです。しかし,仮に上手く言葉にできたとしても,そのままではn=1でしかありませんで,これではいくらなんでも説得力というものがありません。

そこで,この「理科教育アドベントカレンダー2020」のような企画に乗っかってみるのです。言葉にし,公開し,読んでもらう。あわよくばご批判をいただく。もし私へのフィードバックがなくとも,私がここに書いたことはミームとして画面越しの貴方の頭の中にかすかな爪痕を残し,「これは違うんじゃね?」と思われれば淘汰され,「そういう言い方もできるか」と思われれば,ひょっとすると貴方の口や手を介して他の人へと複製されるかもしれない―そんなことを仄かに期待しながら,頭に浮かんだものをそのまま書いていこうと思います。

…では,私達はいったい何を思って問題を解いているのか。とりあえず本稿では,「類推を類推として意識し,科学的な見方や考え方を習得する」ということを挙げてみたいと思います。他にも大切なことはいろいろあるとは思うんですが,生憎ちゃんと言葉にするにはいたっておらず,Tipsにすらできなさそうなので,またの機会にということでご容赦いただければ幸いです。

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・例えば「類推」をどのように伝えるか

私が類推という思考を初めて自覚したのは,おそらく,自身の大学入試本番だったかと思います。問題は,たしか次のようなものでした(ここ,過去記事と重複します)。

大型のトンボと小型のトンボの2種があり,翅の動きを阻害しないようにして胸部を温度計に固定しており,問題では羽ばたき等の行動による胸部温度の変化をリアルタイムで測定した結果が与えられている。さて,大型のトンボと小型のトンボのグラフを比較し,なぜこのような違いが生じているかを考察せよ。…だったように思います。

知らんがな…」最初はそう思いました。学校の生物の授業は,トンボに詳しくなるための時間ではありません。しかし,試験中に,幸運にもあるところに注目することができました。これは,生き物の身体のサイズと,温度の関係をテーマとした問題だということです。

大学受験生物の学習参考書には,「ベルクマンの法則」という法則が掲載されています。これは,近縁な哺乳類においては,“高緯度地域に生息する種ほど身体が大きい傾向”にある(例えば,ツキノワグマ<ヒグマ<ホッキョクグマ…など)というもの。単純計算では,身体の表面積は体長の2乗に比例するのに対し,身体の体積は体長の3乗に比例します。したがって,体長が大きくなるほど“体積あたりの表面積”が小さくなるため,身体の熱が逃げにくいというのがバックグラウンドにあるとされています。

ベルクマンの法則は,食物を源に体内で膨大な熱を生産する内温(恒温)動物である哺乳類に当てはまりのよい法則であり,太陽光などに体温を大きく依存する外温(変温)動物であるトンボにそのまま当てはめることはできません。しかし,“体積あたりの表面積が小さくなると放熱量が下がる”という,物質の温度を説明するメカニズムの部分は,生物が物質である以上,種を問わず応用が効くはずです。ここで大切なことは,たぶん,「法則」と「具体例」だけでなく,さらに「メカニズム」の合わせて3つをおさえるということ。つまり,① 生物界にはこういう法則がありますよ,② この法則は具体例PやQやRから帰納されますよ,③ この法則をP,Q,R以外の生命現象に演繹するためには,このメカニズムをおさえるといいですよ―ということであり,これを意識的に訓練することで,類推を類推と意識して行うことが可能になるのではないかと思うのです。

なお,教科書や学習参考書では,上記の③で当該法則の成り立つメカニズムを紹介する際に,「このメカニズムは,この法則を,これから出会うであろう未知の現象に演繹したりするために学ぶんですよ」という意義付けが不足しているきらいがあるので,我々指導者側が口を酸っぱくして言い続けないといけないなと思うところです。「大小のクマがこうなら,大小のトンボもこうなんじゃないの」という類推を適切に行うためには,法則が成立するためのメカニズムの理解が必要不可欠だと思うのですよ。

 ・例えば中高生が,科学的なプロセスを科学的なプロセスと意識して行うことの意義

まず,大学入試問題を作っているのは基本的に大学で研究活動している科学者です。至極単純な話として,その人間の考え方をなるたけトレースできるようにしておくことが,試験で高得点をとることに寄与しないわけがなかろうというものがあります。

しかし,先程書いたとおり,大学受験生の頃の私は,「類推」という言葉の意味するところを分かっていたわけではありません。それでも無事合格することができたので,この言葉の意味するところを知っていることは,大学入試に合格することにおいて必要条件ではないのでしょう。しかし,学生時に科学哲学に片足(…の小指の先ほど…)を突っ込んだ経験の前後で,私の大学入試生物の問題の見方はがらりと変わりました。いや,より鮮明になったと言うべきかもしれません。大学入試共通テストも来月に控えており,おそらくは従来の大学入試センター試験に比べて「思考力」とやらが重視されるらしい中,「科学とはいったい何ぞや」ということを伝えない手はないのではないか―ということです。現状,授業中の雑談として,あるいは前述のトンボの問題のように科学的なプロセスの見えやすい問題の解説に練り込むなどして,あの手この手で「科学とはいったい何ぞや」伝えようと努めている次第です。

大学入試の問題の中には,単純に知識を問うものもあれば,実験とその結果を与えて仮説を立てさせる問題や,仮説を与えて実験を組み立てさせるものなど,実際に大学や研究所の中で行われている研究活動を巧みに追体験させるようなものもあります。例えば,某所の共通テスト模擬試験では,リード文で研究対象となる生物の生態を紹介し,何を調べるためにどのような実験を行ってどのような結果が得られたかを示し,その考察として2つの仮説を提示していました。そのうち仮説2は,“仮説2をより確からしいものとするには,最初に行った実験では無視していた要素があるので,それを考慮に入れた新しい実験計画を立てる必要がある”という話に続いています。学会発表かなにかで,自分が実験結果を示して考察を述べたら,聞いていた方から「そこは考慮してないの?本当に無視していいの?」と突っ込まれ,新しい実験計画を立てることになった―そんなストーリーを彷彿とさせる問題ですし,“確からしさを上げていく過程としての科学”についても触れることができます。私も,研究活動の場ではそういう流れというか,場面があるということを,その問題を使って学習者の方々に伝えたりしています。

一方で,学校教育における理科では,そのような研究活動の一般的な進め方やルール―則ち,まさしく文科省の言うところの「科学的な見方や考え方」―に関するレクチャーは,断片的で,十分とは言えないのではないでしょうか。例えば,義務教育課程で課されるいわゆる「理科の自由研究」では,(最近はどうか存じませんが)私は評価される観点を教えてもらった覚えがありません。肌感覚で恐れ入りますが,何を以て「科学的」となすかについて,必要十分なコンセンサスが広く得られていないことが,ひいては原子力発電所事故に係る諸問題(直近では処理水の海洋放出の是非など)や新型コロナウイルス感染症対策をめぐるコミュニケーションに,何やら影を落としているように思えてなりません(「必要十分なコンセンサス」がどの程度のものを指すのかについては,全然考えられていないのでここでは割愛します)。

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「理科の自由研究」においては,評価の観点を意識して取り組んだ人と,市販の工作キットを作って終わった人とでは,その取り組みにかかった時間を揃えたとしても,得られるモノの間に何かしらの差が生まれると考えて差し支えないでしょう。「理科の問題演習」も,「科学的な見方や考え方」を意識して取り組んだ人と,何となく解いている人の間には,やはり何らかの差が生じるのではないでしょうか。

私が,従来のセンター試験と大学入試共通テストの施行調査とを比較して一番強く思うことは,共通テストは「頑張って丸暗記はしました」という人への救いがないかもしれないなぁということです。救いがないことは,それはそれで悪いことではない(丸暗記で高得点が取れるような試験であれば,それはどうにかしなければならない)とも思いつつ,センター試験と同じ規模の人数が受験する試験としてはなかなか難易度の高いものになるのではないかという気持ちもあります。しかし,そこで要求されている(要求しようと試みられている)受験生の「思考力」だとか何だとかは,あまり今日ほどまでは意識されてこなかっただけで,決してこれまでの旧学習指導要領の中で培われてこなかったわけでもありません。さすれば,大学入試共通テストの対策にあたっては,科学というものがずっと昔からやってきたものの見方や考え方を,私達理科教育に関わる者がちゃんと言葉にして,ちゃんと伝えることこそが求められているのでしょう。

…というわけで,科学哲学をやりましょう,皆さん。そして,自分自身が問題を解くときに,いったい何をどのように考えているのか,科学哲学の中の言葉を使って表現してみましょう。人に伝えるなら,まずは伝えるための言葉を練らねばなりません。そしてそのための語彙は,書を読まねば身につきません最後の最後で半端者(これまでに教育を学んだこともなく,予備校講師としては2年目を終えようとする程度の者でございます…)がえらそうな口を叩くようで恐縮ではございますが,まずは私達が勉強する,そして学習者の人にも勉強してもらう―この姿勢を,これからも大事にしていきたいと思います。

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さて,ここまで読んでいただいておいて大変恐れ入りますが,この理科教育アドベントカレンダー2020によせてDaiki Nakamuraさんのお書きになった,「理科における科学的推論の課題とメタ認知」が,この拙文よりもよほど俯瞰的で網羅的で,ためになるかと存じます(農学出身の私には,科学教育の研究とは何ぞやということを窺い知ることのできるこうした記事が,とても新鮮で,得るものの多いものに映ります)。ご興味有る方は,合わせてお読みくだされば幸甚です。

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