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日常という名の問題集

 いわゆる「生物は暗記じゃない」と「思考のためには知識が必要」の間に起こるケンカを,いったいどうしたらいいんでしょうね―ということをよく考えます。少なくとも高校課程で学習する生物は,物理や化学に比べれば大きめのモノを扱うことが多いので,対象をイメージしやすい(実物を見せやすい)というところに答えがあるように感じています。

 「リンゴが赤いことを“暗記”している人はいない」というのを,先日どなたかがTwitterのTLに流していたのを拝見しました。私達が生きてきた数十年の間,実際にリンゴをその目で見たり,あるいはリンゴの絵を見たりした回数は数え切れるものではありません。リンゴが赤いという情報は,いわゆる常識として私達の脳に定着し,忘れようとしてもどだい無理な話でしょう。然らば,これを真似ることはできないか。

  生物基礎の単元に,「体内環境の恒常性」というものがあります。私達哺乳類は恒温動物(内温動物とも)と呼ばれ,ヒトの場合は気温が変動しても体温は36℃程度に保たれていますよね。このように,体外の環境が変動しても,体内の環境を一定に保とうとするはたらきを,恒常性といいます。恒常性は体温に限った話ではなく,代表的なところでは食事をして一時的に上昇した血糖値を元の値(おおむね血液100mLあたり100mg)にもどしたりといったところにも見受けられます。いずれにせよ,体内の環境を一定に保つためには,体内の何かが増えればそれを減らし,何かが減ったらそれを増やすという仕組みがあるということです。

 なぜこの単元を持ち出したかといえば,私が高校生の頃,生物の単元で最も「暗記」に頼ってしまった単元がここだという話でして。
 例えば,食事によって上昇した血糖値を下げるにあたっては,血糖値の上昇を間脳の視床下部および膵臓が感知し,膵臓のランゲルハンス島B細胞からインスリンが分泌され,それは肝臓や身体の各部の細胞にはたらきかけて云々。反対に空腹時など血糖値が下降した場合は,膵臓のランゲルハンス島A細胞からはグルカゴン,副腎髄質からはアドレナリン,副腎皮質からは糖質コルチコイドが分泌され,グルカゴンやアドレナリンは肝臓にはたらきかけて云々,糖質コルチコイドは云々。また,体液の塩分が上昇した際には視床下部の神経分泌細胞で合成されたバソプレシンが脳下垂体後葉から血管に放出され,腎臓の集合管に作用して水の再吸収を云々。体温が下がった際には視床下部の神経分泌細胞で合成された甲状腺刺激ホルモン放出ホルモンが脳下垂体前葉の分泌細胞に作用し,脳下垂体前葉の細胞はそれを受けて甲状腺刺激ホルモンを放出し,甲状腺刺激ホルモンは甲状腺に作用してチロキシンの分泌を促進し,チロキシンは全身の代謝を活発にするとともに視床下部と脳下垂体前葉に抑制的に作用することで…

     

 面白いんだけど,面白くなかったんですよね,当時の私には。

     

 インスリンなんかはまだいいんですよ。ニュースでも取り上げられたりすることもあって,その言葉を耳にしたり目にしたりする機会も多い。その点で,「インスリンは血糖値を下げる」は「リンゴは赤い」に近い。でも,バソプレシンとか糖質コルチコイドとかはその単元で初めて見聞きする言葉ですし,それらは小さな小さな分子なので「これがリンゴですよ」と同じノリで「これがバソプレシンですよ」などと見せられるわけでもありません。「バソプレシンは腎臓の集合管における水の再吸収を促進する」は,「リンゴは赤い」とは程遠いのです。インスリンとはスタートラインが違う。

 しかし,インスリンとバソプレシンのスタートラインの違いはたぶん,質的なものではなく量的なものです。至極単純な話,バソプレシンのはたらきについて見聞きしたり考えたりした回数が少ないだけであって,「バソプレシンはフンダララを促進する」を「リンゴは赤い」に近づけることに特段の障壁があるわけでもありません。

 「じゃあ問題集を何回もやって…」やめておきましょう。リンゴが赤いという知識を問題集の周回で定着させた人間はいないと思います。

 ラーメンでもスナック菓子でも何でもいいんですけど,塩辛いものを食べたときに,身体の中で何が起こっているかをいちいち考えてみるのはどうですか。塩辛いものを食べると血液の塩分が上昇する。恒常性のことを考えると,それ以上塩分が上昇することは避けたい。血液の塩分は,血液中の塩化ナトリウムの量を水の量で割ったものだから,塩分の上昇を避けるには塩化ナトリウムの量を減らすか,水の量を増やす必要がある。水の量については,身体から水が抜ける大きな要因は尿だから,尿の体積を減らして水の量を維持するのがよさそう。バソプレシンを集合管に作用させて水の再吸収を促進しよう―という具合です。
 寒いときに身体の中で何が起こっているかをいちいち考えてみるのはどうですか。寒いときは身体の中で熱を生産する必要がある。熱を作るには代謝を活発にする必要がある。代謝を活発にするホルモンにはチロキシンがあって,それは甲状腺から出ていて,甲状腺は脳下垂体前葉から,脳下垂体前葉は視床下部からそれぞれ―という具合です。
 お腹がすいたときに身体の中で何が起こっているかをいちいち考えてみるのはどうですか。血糖値は下がるから,それを受けてはたらくホルモンにはグルカゴン,アドレナリン,糖質コルチコイドがあったっけ―という具合です。

  どうです,問題集の周回よりもずっと多くの「反復演習」ができませんか?ラーメンを食べた後に身体の中で起こることをうまく説明できるのなら,体液の塩分調節に関する理解は担保できると言ってもあまり差し支えないでしょう。説明できないなと思ったら,後で教科書を読み直せばいいのです。説明できるかどうかの判断はある程度自分でもできるでしょうし,自信がもてなければ学校の先生にでも聞いてフィードバックをもらってもいいかもしれません。幸運にも私達は生物ですから(いやまぁ化学物質の塊でもあるんですけど),生物の体内で起こることを考えるにあたって,自分自身の身体を利用しない手はないでしょう?。

     

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 ここで,有名な問題を1つご紹介させてください。2016年度の香川大学の入試問題です。まぁまずは読んでみてください。

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 私,この問題がめちゃくちゃ好きなんですよ。出題者に意図を聞いたわけではありませんが,極めて日常的な現象に,ちゃんと生物学的な説明を与えられるかどうかを試している問題だと思っています。「いい香りがする」とは,いったいどういうことなのか―そのとき私達の身体では,どこで何が起こっているのか。もちろん,「いい香りがする」だけではありません。「まぶしい」とはどういうことか,「腕を曲げる」とはどういうことか,「食べると身体があたたまる」とはどういうことか。「サクラは一斉に咲く」のはどういうことか,「新型コロナウイルスにはアルコール消毒が有効」なのはどういうことか…そう,私達の身の回りには,問題集を遥かに上回る数の問題が収録されています(問題集をやることに意味がないとは言っていませんよ(念の為)。特に,日常ではなかなか触れられないような現象や実験について考えたり知ったりする機会は,やはり問題集や学習参考書で得ていくのがいいでしょう?)。

  ラーメンを食べるたびにバソプレシンに思いを馳せる―そう言うと,やや気持ち悪がられるかもしれません。でも,みんながそうすれば気持ち悪がられることはなくなると思いますし,バソプレシンを思い出してもラーメンの成分は変わりません。みんな,空で雷が光ったら,反射的に音が鳴るまでの秒数をカウントして,雷とのおおよその距離を計算するでしょう?それと同じですよ…計算,するでしょう?え,ねぇ,ね…?

     

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 いわゆる「生物は暗記じゃない」と「思考のためには知識が必要」の間に起こるケンカを,私達はいったいどうしたらいいんでしょうね。「知らなきゃ考えられない」はその通りです。でも,「知ってからでないと考えてはいけない」というルールもないのです。「いい香りがするってどういうことなんだろう」というふとした問いが,「鼻ってどんな構造してたっけ」につながるだけでも,それは科学的なものの見方や考え方,あるいは主体的に学ぶ姿勢の萌芽として,受験生に限らず多くの方に大切にしてもらいたいと願っています。

     

 それでは,今回はこの辺で。

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