アイデンティティの確立と一貫性

人に一貫性は必要だと思いますか。

私はアイデンティティを見失って暗い気持ちなり、夜に泣きがちです。
しかし、頭では思うのです。
一貫性なんて必要ないと。

私はルーティーンが嫌いです。
同じ日は二度と訪れません。この時間に起きて、この天気の中、こんな気分で朝を迎えている自分にはもう二度と出会えないのです。
無理やりルーティーンの行動をとることは豊かでは無い、と思うのです。

大変な矛盾なのですが、私は定義付けをよくしてしまいます。この人はこういう人だ、私はこういう性格なのだ、というふうに。
そして新しい発見をする度にその定義の幅が変わったり、広がったりするのです。

しかし、やはり自分を定義付けることは難しい。私とはこういう人物なのだと自分なりのアイデンティティを確立すると、それと反する行動を取った時に心を病んでしまいます。
それが他者による抑圧によるものなら、なおさらです。外圧で自分ののアイデンティティをねじ曲げられるなんてもっての外だからです。そしてそれにあっさりと曲げられてしまう自分に病むのです。

それでも自分がいったい何者なのか、こういう時にはこんな対応をする自分だよねという定義を確立してしまいたくなるものです。
やめられないのです。
そしてそれに一貫性を求めてしまえば、また、病むのです。

前から、頭では考えていました。人に一貫性が果たして必要なのかと。
秩序を保つためには必要である、これが今のところの自分なりの答えです。
動物に一貫性は必要なくとも、人には文明を築いてみんなで生きていくという当たり前が存在するので、必要になるのです。
文明を持たない未開の島なら、「明日」の概念を持たない民族なら、また違う考えを持つことでしょう。
「文明」は私たちの明日を保証し、私たちの明日を縛り付けるのです。

それではやっぱり生きにくい。文明から否定することは難しい。
否定したい気持ちはたくさんですが、じゃあお前は明日から文明を捨てて生きてゆけるのかと聞かれれば答えられません。
このしがらみから解き放たれる日はくるのでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?