いつか河童を名乗るのが夢でした
ペンネームを「Cappaちゃん」にした。いつか使いたい名前だった。
子供のころ、自分のことを河童だと思っていた。子どもの心の中のことなので、どこまで本気だったか思い出せないけど、少なくとも「私って本当に人間なのかな」とたびたび疑問に思っては、川辺でじっと草いじりをしていて、「ほんとは河童なのかも」と思うと、なぜだかすごく元気になれた、という記憶がある。
これまで20回以上も引越しをしているのに、ほとんどの家のそばには川があった。東京都心に住んでいた頃でさえ、渋谷川や暗渠があったくらい。どうも川辺に縁が深い。
逆に、近くに川がない場所で暮らした学生時代などは、やはり調子が悪かったような記憶がある。
だからかっぱ、というわけでもない。なんというか、自分のアイデンティティについて整理するとき、なぜだか「私は河童が人間に擬態してるだけ」と考えると妙に落ち着くのだ。自分でいうのもなんだけど、別に社会性がないわけじゃない。ご近所さんとの立ち話をしたり、挨拶をしたり、フツーに仕事をして、友達とカフェに行っておしゃべりして、いたって私の社会性はフツーだと思う。
でもどこか、フツーになろうとしている節はある。フツーになることが、自分が生きる上での課題になっていて、その課題をこなすために、社会性を身につけることをゲームのように捉えている。だから、たとえばご近所さんに挨拶できたら、心の中でスタンプを押すのだ。よくできました。ぽん。そうしてスタンプが貯まっていくと、なんだかとても安心できる。
フツーであることはとても素敵なことだと思う。自分を抑えるわけでも誤魔化すわけでもなくって、相手に伝わる言葉を選んで、適度に合わせ、適度に言いたいことをいい、なんでもない会話の中で、「この人の目は可愛いな」とか「笑う声が好きだなあ」とか、そう感じることを、「あなたは目が可愛い」とそのまま伝えるのではなくって、心で「可愛いよー!」と叫びながら、「今日は天気がいいですよねえ」と話をふったりする。
フツーの中に、湧き上がる愛情を詰め込んで、フツーに手渡す。それが私なりの社会性であって、私の中にあるカッパ心は、いつも驚きと溢れる愛と、相手との距離感を掴むのに腐心する心、そして極端な恐れに満ちている。そんなcappaちゃんをたまにはこうして解放して、言いたいこと言わせる場を作ってみた、というわけだ。
夏目漱石が「月がきれいですね」と訳したのは、彼は本能的に「愛してる」と言葉でまっすぐ伝えることの暴力性(暴力そのものではなく)を知っていたからではないかな、と思う。愛してるという言葉には力がある。とっても素敵な力! 私もよく使う。ただ、やはり差し出すには力が強すぎて、胸にバキュンと飛び込んでいってしまう。愛してるは、愛が直線なのだ。
だけど「月がきれいですね」は、胸から湧き上がった愛情が、曲線を描いてスコンと相手の胸に届く、そういう柔らかさがある。愛をはっきり伝えるのと、柔らかく伝えるの、どちらも同じ「愛」だけど、伝え方によって相手への伝わり方は全く異なる。
翻って、私は相手を前にしてやたらと飛び出す愛を、なるべく曲線で伝えたいな、と思っている。フツーの言葉で、フツーの態度で。そのことになぜだか苦労している時すらあって、そういう時、私は河童が擬態した人間だ、と思うと楽になる。
でもまあ、曲線ばかりじゃ伝わらないよね、とも思うんだけどね。その難しさが、人間の楽しさなんだろうなぁ。
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