見出し画像

冷戦時代のリチウムグリス

エロイカジャパンで使えそうなビンテージパーツはないかと宅内を物色したら、40年以上前のカンパ純正グリスが出てきた。

地球儀マークがプリントされたプラ製の簡素な容器
説明書きは本当に簡素。「ボールやローラーの可動部の錆止めグリス」程度の説明のみ。


ピーナッツバターと揶揄されたカンパのグリス

このカンパのグリス。
当時としては最高の性能を誇っていたと記憶している。
それもそのはずで、当時としては非常に貴重だったリチウム石鹸基に潤滑油を含浸させたリチウムグリスだったから。
リチウムグリスは、最高使用可能温度は130 - 150℃と耐熱性に優れ、さらに耐水性や機械的安定性も高い。最も欠点が少ないグリースとされている。
記憶が正しければ、自転車部品の純正グリスでリチウムグリスを採用している事例は極めて稀だったはずだ。

現在、リチウムは、EV等に使われるリチウムイオン電池向けに重要が増大している。
リチウムは今も希少金属に近い扱いだが、40年前と今とでは需要の桁が全く違う。それでも、今やリチウムグリスはありふれた存在となり、ホームセンターに行けば、手頃な値段で往年のカンパグリスと同水準のグリースが入手できる。

40年前、何故にリチウムグリスが、ひいてはリチウムが貴重だったのか。
筆者は、冷戦時代であったことがリチウムの希少性に関係していると推察する。

冷戦時代におけるリチウムの需要は、民生用はグリス程度だったが、軍需では核兵器の製造だった。
核兵器、それも水素爆弾は、原爆の核爆発のエネルギーで水素の同位体である重水素又は三重水素(トリチウム)を核融合させて膨大な破壊力を生み出している。
ここで問題となるのは常温で気体の重水素又は三重水素の扱いだ。
核融合による膨大な破壊力を得るには、水素爆弾に充填する重水素又は三重水素は多いほうがよい。
米国が1952年に行った世界最初の水爆実験では、液体重水素を使ったため、重水素を零下200℃以下に冷却するための装置込みで爆弾の総重量が65トンにも及んだという。
実験は成功し、約10メガトンの核出力が確認できたそうだが、これでは実用兵器には程遠い。

その後、ソ連が重水素をリチウムに反応させて生成した常温で個体となる重水素化リチウムを用いた核実験に成功し、今に至るまで水素爆弾は重水素化リチウムを用いたものが主流となっている。
重水素化リチウムに含まれる重水素は、原爆の核爆発で核融合反応を起こすが、リチウムも原爆の核爆発で生じた中性子を浴びると三重水素に変化し、この三重水素も核融合反応を起こす。
まさに重水素化リチウムは、水素爆弾における理想的な材料だったのだ。

カンパのグリスが流通していた冷戦時代は、核保有国が競って核軍拡を行っていた。
当然にリチウムは軍事的な戦略物資であり、民生用はかなり制限されていたと思われる。
そういった時代背景がありながら、純正でリチウムグリスを用意した当時のカンパは、やはり世界最高の自転車部品メーカーだったと断言できる。

このように、優れた性能を誇るカンパのグリスだが、弱点もある。
それは、使用した潤滑油が鉱物油で若干の硫黄分を含むこと。
短期間の使用なら問題ないが、長期間、それも銅系の合金と接触していると、銅系の合金を腐食する畏れがある。

Cレコードのリアメカ。黄銅のワッシャがグリスに含まれる硫黄分で緑青をふいていた

上掲の写真は、いずれ旧車イベントで使用予定のサムソンのリアメカ。この自転車は、80年代半ば、まだそれほど知られていなかった原田氏の工房に出向き、オーダーしたものだ。これを久々に使い倒そうと、オーバーホールしたところ、リアメカの内部の黄銅のワッシャがものの見事に緑青をふいていた。グリスに含まれる硫黄分が悪さしたのだろう。短期間での使用なら問題ないが、長期間だと、鉱物油由来の化学的な不安定さが問題となる。

化学合成油を用いたであろう現代のグリス。左のカンパグリスは廃盤になってしまった。残念

原油の蒸留残渣を用いた鉱物油では硫黄等の不純物の混入は避けられない。
しかし、化学合成油は炭素と水素だけで構成されたエチレンガスを重合して生成されるので、不純物が混入する余地はない。

自転車関連のブログを覗くと、冷戦時代のカンパグリスを妙に崇める輩がいて、苦笑させられる。

確かに当時は最高だったが、科学技術が進んだ現代のグリスのほうがあらゆる点で優っている。

当時物を崇めたくなる気持ちは分からなくはないが、持続可能な旧車ライフを鑑みれば、現行製品で使えるものは使ったほうが賢明だろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?