【雑記】日録風に一週間をふりかえってみた。
ふりかえってみた。
あくまで日録「風」です(後から記憶を思い起こして書いている)。
たまに支離滅裂なこと書いてたらすみません。
11月14日(火)
2限、3限、5限で授業。合間に利根沼田夢大学の夢大生募集情報リリースのための作業。
沼田市でお世話になっている人の一人Mさんの投稿からTVアニメ「菜なれ花なれ」の舞台に沼田が採用されていそうだと知る。
主人公(?)が通っている学校の外観は母校・高高(高崎高校)っぽいのもあり大興奮。沼田から高崎高校に進学してる人の物語とか7割大橋弘典の物語でしょ(うぬぼれるな)
夜。その高高の同期で吹奏楽時代の部長だった菅家太一くんのライブに行く。北大オケの定期演奏会にもいつも来てくれてるので大学いるうちに行かねばと思っていた。吹奏楽部の1年後輩で北大俳句会にも入ってもらってる中之条のKくんと行った。
ジャズには詳しくないが、いち音楽体験としてめちゃくちゃ良かった。トランペットがゲストの方(松島啓之さん)で、うまく楽器をコントロールしていい音を出しているなと思った。めちゃくちゃお腹を使ってるのがよく見えた。上手いなあとかじりついて見てた。
あと、よく考えれば当たり前の事なんだけど、人数が多いオーケストラと、4人しかいないジャズバンドでは、音楽の推進力の生み出し方がかなり違うなと改めて思った。見当はずれなこと書いてたら恥ずかしいけど、菅家くんがやってるドラムは音楽の進行をマネジメントして最後尾から支えているような雰囲気があるし、ところどころで先頭に立つ楽器をぱっ、ぱっと交代していくような身軽さがとても鮮やかに見えた。
なにか活動していく上でも推進力をどう生んでいくかってすごく悩ましいところで、まさに夢大学で悩んでいるところ。あの空間で繰り広げられていたことは参考になりそうな姿として僕の眼にうつった。
その後、中之条のKくんとおでん。Kくんは卒業してすぐ帰群を考えているらしい。かわいい後輩の一人である。
11月15日(水)
2限、4限、5限。5限のゼミにはたくみの里が一文だけ出てきてびっくり。
授業の合間にインターンの業務、夜は自動車教習。
自動車教習、やっと修了が見えてきた。期限まであと一ヵ月半からよく持ち直してきたと思う。
11月16日(木)
この日は基本自動車教習。
合間にcraniginalのページで高崎経済大学の起業サークル「その先の高崎」主催の学生×起業の事業共創プロジェクト「その先を照らせプロジェクト」についての宣伝記事をアップ。
溝渕さんがんばってる。僕もがんばらなきゃ、と焦る。
11月17日(金)
2限で生涯教育論をとってから、群馬に帰るために新千歳空港へ。
金曜の授業ということもあり、ついつい上の空で受けちゃう授業だけど、この授業は夢大の意義を足元の部分から見直すのに有意義な授業だから真面目に受けねば(自戒)。
夜は移動しながら銀竹の定例会に参加。
実は文芸へのウェイトを大分そぎ落としている最近。
日比谷さんや植木さん、綾驟雨くんの推進力がすごいのでなんとかなってる。感謝しなければいけない。
11月18日(土)
この日は前の投稿でも宣伝させてもらった「山育フォーラム2023」。
佐藤博久は2人スタッフを引き連れてきてくれた。めちゃくちゃ本格的な機材が入ったフォーラムになった。配信があるだけで、地域での取り組みがこんなにも広がるんだなと思った。
地域の人口は減っていくが、地域の広さは変わらない。最初のオーケストラとジャズバンドの話ではないが、地域で流す音楽と意識を変えていくことが、ゆたかな風土づくりには必要になってくると改めて実感。
11月19日(日)
帰札。夜はインターンの業務という機会を得てではあるが、初めて恵迪寮にお邪魔させていただいた。足を踏み入れて、普段の北大ののんびりと/おっとりとした文化圏と異なる文化の風と匂いを感じる。母校高高と近い匂い。日本の未来について一晩語れるだけの熱量と、土台として根付いているアナーキズム的な何か(※おそらく、それは寮生が自ら暮らし方を決定するという思想であって、もっと広範な政治や社会体制に及ぶものではない。また実際に「自治」のなかの制度については数時間いただけでわかるものではない)。
北海道での地域づくりや「旅」を武器にした社会づくりに意識があり実践をしている人たちと知り合えたのはたいへん大きい。少なくとも彼らにとって、この寮での生活は心の根をはる土壌になっているに違いない。「暮らし方」が「型」になって心を育んでいくものであり、実践と環境整備の価値を思う。
あとは、「暮らし方」の実践にはそれをいかに包摂的なものにするのかということが大事かもしれない。「都ぞ弥生」の美しい歌詞を思いながら、満ち足りた帰路についた。
11月20日(月)
自動車教習はついに危険予測にまでたどり着いた。
そして、編集長を務めた『第26回俳句甲子園公式作品集』(11月19日発売)を、本になった状態で初めてじっくりと読んだ。
三度読んだ。一度目は一読者として楽しんだ。
二度目は、今年の編集部の仲間たちの顔を思い浮かべて読んだ。例年より分厚く重い本誌だが、なおさら重みを感じた。編集部員の一人一人の熱量があってはじめてできた雑誌だと痛感した。
三度目は、他の読者を想定しながら、来年の雑誌編集を考えながら。
僕は、自ら暮らし方をより良くする運動の意義とともに、自ら言葉を用いて心を養うことの意義を感じている。昭和期の国語教育には「生活綴方」という運動があって、まあ僕も勉強しているところだから深いことは言えないが、自らの生活を題材にしながら自由にエッセイを作文させることで一つに日本語を習得させ、もう一つには「いま、ここ」を認識して心を育ませるというものである。
「綴方」というから最初は習字的なものかと思っていたが、今ではこの「方」とはやはり「型」をつくるということに通じる言葉なのではないかと感じている(裏どりはできていない)。思いがあって書くのではなく、綴るという「型」を通して思いが生まれる。なんでも、手を動かして実践するということで思考の「型」を習得し、そしてアイデアが湧いてくるのだと思う。
こういう活動的な視点から、僕は「俳句」についても意義を考えている。俳句は思いとか表現するものが先行するものではなく、生み出されたときにそれが「型」の力によって意味するものとして現出する、と僕は思う。不思議な「型」の力とか、言葉の魔力とかに触れる機会はなるべく多いほうがいいと今のところ考えている。
俳句甲子園公式作品集編集部の活動は、今のところ地域づくりや社会づくりに向けた活動と直接的な結びつけをできていない。だけど、「俳句」というものに触れて高校生を中心に人々がなににはげむのかということを間近から触れ、それを編集することにはげむことの意味をなんとなく感じているのである。
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