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自分という者の正体に気づくとき。

ふっと自分が自分でなくなって、遠くの方から別の人格として自分をみるような…そんな感覚に襲われたことってありませんか?
今でいうところの「メタ認知」って感覚?
もっと高じると、今、目の前にいる相手の心の中に突然すっぽりと入っちゃって、気がつくと、その人から自分を客観的に見てるようなこと…ないですか?
ちょっとキモイ…なんて思わずに記憶を辿ってみてくださいな。

実は、私はしょっちゅうあります(まぁ、いわゆる感情移入ってことですが)。
ご年配のご婦人に入っちゃったときは、しみじみ「年をとるってことは…いやはや」なんて考えちゃうし、子どもに入っちゃって「ちぇっ、大人はわかってないなッ!」ってこともあります(笑)。  

 デジャヴ(既視感)というのかしら、初めて訪れた場所なのに前に一度来たことある、初体験のはずなのにコレぜったい前にやったことある、このシチュエーションには覚えがあるって経験は、きっと誰もが一度や二度はしているはず。
子どもの頃ってその感覚がやってくる頻度がもっと著しくありませんでした?

 矢継ぎ早に質問が続いちゃったけど…。

そういう感覚ってだれにでもあるんだと、アナタは正常ですヨ…と言ってくれる児童書があるんで、ご紹介します。  

 杉山亮さんが書いた「ぼくにきづいたひ」。前回の「むぎばたけ」に続き、片山健さんが挿し絵を担当しています。絵もいいですよ、パワーにあふれてる。 

ぼくにきづいたひ

「ぼくにきづいたひ」 杉山亮/作 片山健/絵 理論社

舞台は夏のお寺です。

にちようびのあさ、お父さんと一緒にお寺巡りをすることになった「ぼく」。お父さんは、普段から「ぼく」を遊園地とか動物園などのお子様スポットに連れてゆくことはなく、ひたすら神社仏閣めぐりに子どもを同行させている、子どもにおもねらないタイプの親。 

 お父さんと同じ趣味を持つ仲間(みな、おじさんヨ)と一緒に、あるお寺に到着した「ぼく」は、裏の墓を見学にゆくという一行から離れて、寺の縁側でひとり待つことになります。  
ひっそりとした境内で、聞こえるはセミの声ばかり…。

 画家である片山健の視線アングルがずっと引いていって、上空から丸くなって縁側に座っている少年を捉えます(ほらほら、この辺から「ぼく」のメタ認知がはじまるのダ)。
 山々が夏のうれいを抱えて静まり返っています(健さんの絵はこのあたりまで墨絵風タッチになっていて、空気感の変化を大切に描いているんです)。  

 帰ってこないお父さんのことをちょっと思い出した「ぼく」が、ふっと見上げた樹木に「あれ?」って思う。「前に見たことある」ってね。そして「この木の根元で休んだことがある」って。
その上、「この地面を歩いたことがあるような気がする、こんな風にふかれたような気がする」…と、次々と気づいてゆくわけです。

 そして、極めつけ…「ぼくはどこからきたんだろう。ぼくのことを考えているぼくって、いったいだれなのか?」ってところまでいってしまうのです。
すごいよねー。小学生がこんな哲学的な心境に寺の境内でなってるって…。

 「ぼく」は、このとき生まれて初めて「自分」というものを客観視したのです。 「自分という存在の気づき」ですよ、まさに。
「心臓をなでられているようないいキブン」になった「ぼく」は、その体験をした数分後、見る景色や、接する人に対して、今までとは違った感覚を持っている「自分」に、これまた、気づいてゆくのです。


 「自分」というものを中心にコンパスで丸を描くような自己チューな子ども独特な世界観があるとします。

 でも、人はいずれそういうものから離れ、時と場所によってコンパスの中心を自分以外のものに設定することを覚えてゆきます。 
  自分に気づくことは、同時に、自分以外のものに気づくことになるのかもしれません。

 「あの体験」を経て、「ぼく」はお父さんの友達の顔をくっきりと見わけられるようになり(繰り返しますが、全員おじさん(笑))帰りの電車の窓からは、夕焼けまでじっくりと観賞してしまうようになるんですから…。

 
 こんなにはっきり、くっきり体験した記憶はないけれど、私が子どもの頃よく経験した「体から心が離れるような不思議な感覚」には、実はこんな意味があったのか…と、これは、まさに「気づかせて」くれた本なんです。

こんな難しいテーマで絵本をつくるなんざー、杉山亮さんって作家はナニモノなんだろー。スゴすぎる。

お子様とご一緒に。
はたまた、おひとりさまでも楽しめる一冊です。


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