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天の声を聞く 【『左伝』に学ぶ】

中国春秋時代、昭公7年に日食がありました。
古代社会では、日食は不吉なものとされていたため、当時の人々は何か災いが起きるのではないかと恐れおののいていました。
晋の君主も同じ思いだったのでしょう。臣下の士文伯に日食について下問しました。そこで、士文伯は魯国と衛国に何か悪いことが起きるだろうと応えています。

まつりごとを善くせざるを謂うなり。
国にまつりごと無く、善き(人)を用いざれば、
則ち自ら日月の災いを取謫す。
故に、政を慎まざる可からざるなり。

『左氏会箋』昭公七年

その理由は、国に善政が行われていないからだと説明しています。
そのような国難を避ける方策として、次のように述べています。

一に曰く人をえらぶこと。
二に曰く民にること。
三に曰く時に従うこと。

『左氏会箋』昭公七年

独裁政治は、いつの時代でも民を苦しめるものです。
君主制の時代にあったとしても、賢者を撰んで国政に参与させないといけないという「監戒かんかい」が儒教精神にはあります。
しかしながら賢者を登用するということは、並みの君主ではなかなかできないものです。
自分より頭の良い者が臣下にいると、いつか自分を裏切って国外に追放させられるのではないかという疑心暗鬼に駆られるからです。
いつの時代でも、国や組織のトップに立つと、猜疑心が強くなり、少しでも不安を感じる人物を排除して、自らの地位を安泰にしたいという傾向が出てきます。
これは、君主制や独裁制のみならず、民主制の時代でも繰り返されていることは、歴史を見ても明らかです。

良い政治(善政)とは、民の豊かな生活を実現するためにあるのだという価値観が、その根底にあるか否かで判断できます。
自分や家族を豊かにするための政治なのか、民を豊かにするためなのか、為政者は常にこの部分を問われています。
自らを安泰にするために政治をしている者は、決して優秀な人材を登用することはありません。
そのような意味で、民のためになる善政を行っているかどうかは、優秀な人材を登用しているかどうかで判断することができるでしょう。
また、人材登用にはタイミングが大切です。
とかく優柔不断な人は、できるだけ責任をとりたくない、周りから批判されたくないと考えることから、結論を後回しにしがちです。そのため、タイミングを逃すことになります。これは決断をしないという決断をしていることになります。
「時は天にあり」という言葉にもあるように、時間というものは万人に平等です。誰もその進行を妨げることはできません。
緊急事態が発生した際、その処理に最適な人物を躊躇無く採用し、任務と権限を与えることができるかが、その為政者の器量が試される時です。
魯国と衛国は、このような政策や人材登用がされていなかったのでしょう。そのため、晋国の士文泊は、日食という天体現象を見て、魯国と衛国に起きる災いを予見しました。

聖人は神霊の監戒かんかいを作為す。
知達の士は先聖の幽情を識る。

『左氏会箋』昭公七年・註より

森羅万象の出来事から、天からの教えや警告を知り、改善策や対応策を自らが仕える為政者に提言できるのは、聖人といわれる人物だけなのかもしれません。
古代社会では、洋の東西を問わず、一種の神聖政治が行われていました。
それ故、天の戒めというものを一番に恐れていたはずです。
監戒とは天の警告ですから、これを無視したり蔑ろにしたりすると、天罰が下り天災が起きてしまいます。
古代の神聖政治では、天変地変には必ず予兆があるという、永年の経験からくる知恵のようなものがありました。
天の意思を正確に伝える聖人が唱える「監戒」の意義を、それをよく理解している知達の士が、国の危機に際して、先人達の憂国の思いをも鑑みながら、真剣に改善策を実行し、災いから逃れようとしていました。
まさに機先を制して、難を逃れていたのです。
「日食は不吉だ」として、ただひたすら恐れているのではなく、これは天の警告であると受け止めて、現実の治政に活かそうとするならば、大きな失敗をすることはないでしょう。

治に居て、乱を忘れず。
安きに居て、危うきを忘れず。

『易経』繋辞下より

為政者たるもの、どんなに小さなことも見逃してはならないのです。

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