早稲田の古文 夏期集中講座 第11回 源家長日記について part1
早稲田の法学部2012年度は「源家長日記」が出題されました。後鳥羽上皇が約200年ぶりに再興した和歌所の寄人(よりゅうど)に、慈円・俊成(法名・釈阿)良経など十一名えらび、開闔(かいこう)(書物・資料の出納などの雑務を取り仕切る役)に源家長を充(あ)てたのです。(『承久の乱』坂井孝一著 中公新書)
健元年年(1201年)七月のことです。その後、鴨長明も寄人(よりゅうど)に選ばれたのですから、源家長という人物は後鳥羽上皇をとりまく歌壇の重要人物と言えるでしょう。
当然、歌に関する価値観も後鳥羽上皇や定家、鴨長明、西行といった時代精神の象徴とも言うべき人たちと共通のものがあるはずです。
時代性と言うものを無視して和歌を文法と言う名の刃物で切り裂くことは、歌の命とも言える、歌体と言う本体性を無視していると言わざるを得ません。分析は破壊である、と英文学の泰斗、外山滋比古先生(『思考の整理学』で著名)もおっしゃっています。
歌体は何なのか、有心体か幽玄体かということを定家は問題としました。『新古今』の時代性はこのようなコンセプトで考えてゆくべきであると思います。
定家が最も大事にした歌体は有心体です。「宜しき歌と申し候は、歌毎(うたごと)に心の深きのみぞと申しためる。」と言っています。(『毎月抄』日本古典文学全集 小学館)どの歌にせよ歌境の深さ、心の深さだけが大事だということです。そのためには、
「よくよく心を澄まして、その一境に入りふしてこそ稀(まれ)によまる事は侍れ。」と言っています。十二分に自分の心を澄み切った状態にして、一つの精神的境地に意識を没入させないと詠めない、というのです。(同書 藤平春男氏訳)
「有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。」と定家は述べています。有心体以上に和歌の本質を備えていると思われる詠風様式はない、と言っているのです。本意(ほい)と事物の美的本性をいうのです。(同書p625参照)