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2014年度 慶應義塾大学法学部 論述力試験「ケアの倫理」

 慶應義塾大学法学部の論述力試験において、2014年「ケアの倫理」に関する問題が出題されました。岡野八代やよさんというフェミニズムの研究者の「立命館法学」からの論文です。

岡野八代さんは「フェミニズムの政治ーケアの倫理をグローバル社会へ」というみすず書房の著書が早稲田の法学部で2018年に国語として出題されています。

「ケアの倫理」は「正義の倫理」と対照的に論じられているようです。市民社会のリベラリズムは「正義の倫理」が支配的で、前か悪かという二元対立で弱肉強食の価値観となりやすくなります。

「正義の倫理」というのは、暴力と戦争をまねきやすい、というのが政治学においては一般的認識です。善が悪を正すというのは、男性中心の政治世界では、ありがちの倫理観です。

 しかし、善悪の倫理観というのはきわめて相対的で、時代や歴史・文化・習慣・宗教の違いによって全く変わってしまいます。絶対的な善悪の基準というものは、人類の歴史始まって以来、無いといってよいほど価値基準は千差万別なのです。「チャップリンの殺人狂時代」で「一人殺せば殺人者、百万人殺せば英雄」というのがありました。人の生死ですら、絶対的な基準がないといっても過言ではないでしょう。

 しかしケアの倫理はいたってシンプルです。傷ついた者、弱い者を放っておかない、無関心でいない、救いの手を差し伸べる、という倫理です。
善人・悪人関係なく、傷ついた者は皆救え、という倫理です。これはアンリ・デュナンが万国赤十字社を設立した考えてと極めて近いものがあります。

戦争時に敵味方関係なく傷病兵を救え、という倫理は20世紀になってやっと確立したのです。それでも人類は二度の世界大戦で何千万人もの死者を生み出しています。正義の倫理がいかに支配的かわかるというものです。

 ケアの倫理は、母的思考で平和構築の倫理である、と岡野さんは著書で述べています。それは、無責任と同一視される「平和主義」ではなく、極めて「戦闘的」であると言っています。
無力な者、傷ついた者へ祈り、嘆き続け、目をそむけることなく問い続けることが、暴力や戦争への批判力となるというのです。

 思えばタリバン政権の復活したアフガニスタンでも、タリバンの戦闘兵に鞭で殴られながらも抗議し続ける女性達の姿があります。

 グレタ・トゥーンベリさんは全世界に向かって、未来が無いのに学校に行っても仕方がないと声をあげました。アフリカ諸国では国会議員の半数以上が女性である国が多いと聞きます。ルワンダなど、部族抗争で多くの女性や子供が虐殺された反省をふまえて女性が立ち上がっています。

 ニュージーランドやドイツの首相が女性であるのは周知の事実です。今後、日本も女性進出が進めば、社会は大分変化してくのではないでしょうか。

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