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「孟子入門」【鴻鵠先生の漢学教室5】

 宋学・陽明学の考え方としては、まず孟子の「性善説」や「先天の良知良能説」をあげることができるでしょう。
 「孟子」尽心章(巻第十三)十五には、

孟子曰く、人の学ばずして能くする所の者は、其の良能・・なり。慮らずして知る所の者は、其の良知・・なり。孩提がいていの童も其の親を愛することを知らざる者はなく、其の長ずるに及びて、其の兄を敬することを知らざるものはなし。親を親しむは仁なり。長を敬するは義なり。(善を為さんと欲せば)他なし、これを天下におしおよぼすのみ。

岩波文庫「孟子(下)」小林勝人訳注

 孟子が唱えている「性善説」は、「人には天性うまれつきの良い知恵や良い能力をもっていて、それが仁や義である」というものです。これは学習して身につける知識とは違う概念です。これは、思索を続け考え抜いた結果から導きだせるものではありません。生まれながらに備わっているものとして、身近な両親への敬愛というものがあるのだと言っているのです。
 このように宋学・陽明学の根源にあるのは、「人間の本性や天性に対する『信頼と信仰』である」と言えるでしょう。

 ところが、同じ時期に、「人間の本性は悪だ」とする「荀子じゅんし」という思想家がいました。
 彼は、「人間の本性が本当に善ならば、なぜ戦争は無くならないのか。それは、人間の本性が悪だからである。人は学問をしないと、この本性の悪はなくならない。だから人間には学問が必要なのだ」と説いています。

 この考え方は、ある意味、非常に説得力があるように感じられるでしょう。 
 「荀子」は、礼の国家を理想としており、礼によって治める国家を目指していました。
 孔子以来、儒教では、「礼」と「がく」を非常に重視しています。

 孔子の時代、「礼」は宗教的儀式も含む広い概念として考えられていました。日本のように、単なる礼儀作法という狭い意味の言葉ではなかったのです。

 孔子の生きた春秋時代には、国家と国家の間にも、礼によって定められていた外交ルールがありました。この外交の様子は、四書五経の一つである「春秋左氏伝」という書物で詳しく書かれています。

 この荀子を師と仰いでいたのが、法家ほうか思想で有名な「韓非子かんぴし」です。
 厳正な信賞必罰で国を治める「法家思想」という考え方は、戦乱に明け暮れていた戦国時代には即効性があるものでした。
 韓非子が唱えた法家思想に感銘を受けた秦の始皇帝は、法治主義を国の体制とし、戦国時代を終わらせ、中国の歴史上はじめて、統一国家をつくることに成功しています。

 一方、孟子は絶望的な旅を続けていました。
 彼が理想としていた「礼に基づいて行う仁義の政治」(=王道政治)は、どこの国にも受け入れられることはありませんでした。そのため晩年は、田舎に籠もって、弟子たちの教育と著述をしながら過ごしていたようです。このような末路は、孔子も同じでした。

 孟子の「性善説」を証明したのは、むしろ禅僧であったと言えるかもしれません。
 禅では、「見性成仏けんしょうじょうぶつ」することが修行の到達点だと言われています。達磨大師から始まった禅宗では、六祖慧能の頃から、「人間の本性ほんせい仏性ぶっしょうそのものであり、見性けんしょうすることで人間は誰でもほとけになることができる」としています。

 禅は、とうの時代に名僧が次々と生まれたことで、宋の時代になって完成します。ここから宋学・陽明学へとその精神が受け継がれていきました。
 このように、孟子の性善説は、禅の「見性成仏」によって完成したと言えるでしょう。

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