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人生を変えるような出会い 【「良き師」「良き書」がもたらす影響とは】

現在も受験指導を生業としている自分にとって、人生の中で大きな影響を受けた「素晴らしい師」との出逢いがあります。
その一人は、大学受験の頃に通っていたS予備校で、世界史の授業をされていた大岡俊明先生です。
立ち見が出るほど大勢の生徒が詰めかける中、とくに板書されることもほとんどなく、ひたすら先生の講義は続いていくのですが、先生の世界史に関する知識量にまず驚かされます。
先生がおっしゃるには、世界史の教科書に出てくる著作物はほとんど読んでいたそうです。
その圧倒的な読書量に基づいた講義は、少しの淀みも無く、淡々と行われていきます。
当時の自分は、先生のやり方を見習い、先生が講義の中であげられた世界史に関する著作物を片っ端から買い漁り、先生の素晴らしさに近づこうとしていました。

・フランス・ルネサンス期の人文主義者フランソワ・ラブレーが著した
  『ガルガンチュワとパンタグリュエル』 渡辺一夫訳(岩波文庫)
・イブン・バットゥータ著
 『三大陸周遊記 抄』前嶋信次訳(中公文庫BIBLIO)
・『完訳バガヴァッド・ギーター』鎧 淳訳(中公文庫)
・『エリュトゥラー海案内記』村川 堅太郎訳註(中公文庫)
・・・など、先生があげられていた著作は、今見ても歴史資料として、一級品のものばかりです。
このリストを見ても、大岡先生が、自分たちに対してされていた講義が、いかに確かな文献と、それによってもたらされた豊富な知識に裏打ちされたものであるかがわかります。

とりわけ、武田泰淳さんの『司馬遷-史記の世界-』は名著でした。
1943年に日本評論社から出版され、その後、いくつもの出版社が文庫版を出していることからも、それがいかに後の歴史学者や作家、読者に影響を与えたものかがわかるでしょう。(自分が入手したのは、講談社文庫版です。)
武田さんは、時間と空間の全体性について、独自の思想と歴史観を展開されており、その著述は、今読み返しても刺激的かつ啓発的なものです。

『Ⅰ「本紀」について』において、「世界の中心」というテーマが語られていく部分では、「本紀」と「列伝」の関係性が語られる中で、

「項羽本紀」は、「高祖本紀」と並べて読み合わせるようにできていることが、他の「本紀」と異なっている

武田泰淳著『司馬遷 史記の世界』(講談社文庫)

とされ、そこに「二つの中心」を見いだしていきます。

項羽が世界の中心となり、その次に高祖が「世界の中心」となったと云うより、項羽と高祖が二人で「世界の中心」をかたちづくっているように見える。
この二人の強者の力のかぎり争いあう姿が、そのまま世界の中心をなしているように思われる。
二つの物理的な力が作用しあう一つの宇宙的な「場」のようなものがあり、読んでいてハラハラする程、そこからすばらしいエネルギーを発散する。「項羽本紀」と「高祖本紀」はたてに時間的につながっているのではなく、よこに空間的につながっている。

武田泰淳著『司馬遷 史記の世界』(講談社文庫)

また、『Ⅱ「世家」について』では、「行動者」と「持続」というテーマが示されます。

史記的世界は、決して持続を許さない世界である。(中略)
およそ個人にしても、血族にしても、集団にしても持続が本能である。
しかし持続が困難なことは、「史記」では栄枯盛衰、生者必滅的な意味、時間による変化の意味で問題とされているのではない。(中略)
時の流れに詠嘆する風に、考察されているのではない。持続すべきものが持続しないのをただ悲しむべき現象と見送るのではない。(中略)
史記的世界では、持続は空間的に考えられている。全体的に考えられている。(中略)
『史記』の問題にしているのは、史記的世界全体の持続である。個別的な非持続は、むしろ全体的持続を支えていると言ってよい。(中略)
この絶対持続へ行きつけるからこそ、史記的世界は、真に空間的なのである。

武田泰淳著『司馬遷 史記の世界』(講談社文庫)

司馬遷が残した『史記』を読む上で、武田氏が著した同書の存在は、自分にとっても大きなものとなりました。

人は、その生涯の中で、さまざまなものに影響を受けるものです。
好きな映画や音楽、小説などに影響を受ける人もいるでしょう。
自分の趣味的世界に没頭し、特定の興味の対象に関して、ひたすら「検索」を続け、追いかける人がいるかもしれません。
そう考えた時、自分の場合は、知性と教養があり、優れた見識をもち、素晴らしい考え方をする人との出逢いによって、人生の根幹が形作られてきたように思います。
大岡先生と出会ってから、既に30年以上経っていますが、先生の物の見方や考え方、教養の深さや見識と比較してみて、自分がまだまだ足下にも及んでいない事実に愕然としてしまいます。
そういう意味では、今も猶、先生の背中を追いかけながら生きていると言えるでしょう。
同様に、「良き書物」との出会いも、そのような「良き師」がきっかけとなります。
大岡先生がそうであったように、それは自分の趣味や好みを押しつけるものではないため、誰もが学ぶべきものである場合が多いからです。
しかし、それは読むことを強いられるようなものではないため、実にさりげなく提示され紹介される場合がほとんどです。
学ぶ側が真剣になって神経を研ぎ澄ましていなければ、見逃されてしまうようなものばかりです。
学ぶということは、与えられるものをこなしていくことではなく、自分から能動的・積極的に求めていくことが基本となります。
そうでなければ、自分の「器」が大きくなるようなこともなく、殻を破ることもできないからです。
良き師は、この世の存在でなくなった後も、人に影響を及ぼし続ける存在です。

子供たちを教育する立場にある自分が、果たして「そうなれているのか」。
少なくとも「そうありたい」と願いながら、指導する日々が続いています。




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