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第5回 歌人 鴨長明 【早稲田の古文・夏期集中講座】 

鴨長明について

『方丈記』で有名な鴨長明は、後鳥羽上皇に見い出され、歌壇に地位を確立した人です。
源家長の日記によると、身分的差別待遇を受ける苦しい立場にあったそうですが、後鳥羽院の恩顧にこたえるために、「夜昼奉公おこたらず」という精励ぶりであったそうです。(『方丈記』簗瀬一雄注解説P.146 角川ソフィア文庫 平成14年版)

歌壇に地位を確立したのは、正治二年(1200年頃)で、第二度百首和歌三百六十番歌合の歌人に選ばれ、それ以後、多くの歌合・歌会に出席して華々しく活躍しています。それは、鴨長明が、43歳以降のことでした。

初めて鴨長明の歌が、和歌集に採用されたのは、文治三年(1187年)33歳の時でした。
その時の喜びようは、『無名抄』の中で「千載集に予一首入るを喜ぶこと」とあることでもわかるでしょう。

千載集には予が歌一首入れり。「させる重代にもあらず、詠みくちにもあらず。また時にとりて人に許されたる好きにもあらず。しかあるを、一首にても入れるは、いみじき面目なり。」

(現代語訳)
「千載集には私の歌が一首入りました。『これといった重代の歌人でもない<代々歌詠みの家柄でもない>巧みな歌人でもない。また、さしあたって人に認められた数寄者でもない』それなのに一首でも入ったのはたいそう名誉なことだ。

『無名抄』久保田淳訳注・角川ソフィア文庫

『千載集』とは

『千載集』の撰者は、定家の父藤原俊成です。『古来風躰抄』の著者でもあります。
「幽玄」についての価値観は、定家と同じであると言われています。

同じ頃、西行は、陸奥の国にむかう修行の旅をしていました。
『千載集』が撰ばれると聞いて、その中味が知りたくて、わざわざ都に向かったところ、知人(答蓮とうれんという人か)にばったり出会ったので、「私の詠んだ『しぎ立つ澤の秋の夕ぐれ』という歌は入集しましたか」と尋ねたところ、「さもなし」と言われてしまったので、また陸奥に戻ってしまったそうです。(『今物語』42 鴫立つ沢より 三木紀人全訳注 講談社学術文庫)

『新古今和歌集』では、次の歌がとりあげられています。

石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れも 尋ねてぞすむ (1894)

『新古今和歌集』(小林大輔編・角川ソフィア文庫ビギナーズクラッシクス)

これは、巻第十九神祇歌におさめられているもので、賀茂の地の清らかさ(賀茂川の古い呼び名である石川や瀬見の小川)を詠むことで、神の力をほめ讃えようとしたとあります。(同書P.196)

「月」の題詠みとして詠まれたもので、月は、「仏性顕現の真如の不滅性」神力の天譲無窮なる恒常性」を暗示したものと思われます。

鴨長明は、賀茂神社に仕える神官の一族でした。しかし父の死後、不遇となり、一族の妨害にもあって、出世さえ出来ませんでした。

だからこそ、歌の道に一層励んだのでしょう。
そのような人生の影が、歌にも陰影と奥行を加え、深みを増していったのでしょう。
それが、地位や財産に恵まれていた貴族たちとは違った風合いとなりました。

仏の教へ給ふおもむきには、事に触れて、執心なかれとなり、今、草庵を愛するもとがとす。閑寂かんじゃくに着するも障りなるべし。

『方丈記』㉟

静かなる暁、このことわりを思うひつづけて、みづから心に問いて曰く、世をのがれて山林にまじはるは、心を修めて道を行わんとなり。

『方丈記』㊱

建暦二年(1212年)、鴨長明が58歳の時でした。
この年に、法然が亡くなっています。

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