宇宙の成り立ちを別視点で考える。   ~空想の世界で自由に~

 「人」というものは「細胞」の集まりである。そして細胞は原子の集まり、更に・・・・。逆に「人」「地域」「国」「地球」・・・と広げることもできる。

 物事には限があり、無限は存在しない。では宇宙の限には何があるのか、もしくは宇宙の外には更に何かしらの世界が存在するのか。

大きさや時間の尺度は人が作り出したものであり、それがすべての世界に通用するかといえばNOである。1日は24時間だが、人間の体内リズムは25時間で動いている。その理由もよくわかっていない。忘れたが、火星か金星の1日の周期は25時間といわれている。そうなると大部分の地球人は宇宙人(地球外生物)なのかもしれない。

 宇宙人を必死に探しても見つけられず、結果的に自分自身だったらと想像すると面白い。人を見てれば宇宙人を見ていることと同じだから、空を見上げる必要性さえもなくなる。

 想像力は創造力を呼ぶといわれ、想像できるものは作ることができるといわれているが、これはさすがに証明も無理だろう。。

 尺度の話に戻るが、尺度は人間にとってであること。そう考えると、別尺度、概念が存在すると考えるならば、人間は小人の可能性も出てくる。温度というものも、尺度の一つであり別尺度では、適温であるかもしれない。小人の人間の尺度で無限の世界をはかろうとしても無理な話であり、その尺度で図る必要がある。

 宇宙の発生そのものを、一つの水槽の中での一時の出来事であったとする。そうすると、その水槽を管理するものも存在する。その世界の中での宇宙を創るという科学実験的なものの出来事の可能性さえある。宇宙が発生して数十億年といわれという時間が、その世界の時間尺度では1日か2日程度かもしれない。

 そう考えるならば、人には人の、動物には動物の、虫には虫の、、、、様々な尺度が存在する。人が、動物のことを考え、虫のことを考え、、、。動物は何を考えているのか、虫は何を考えているのかはわからない。逆立場でも、動物は人間が何を考えているのか理解できないし、虫も理解できないだろう。そもそも、人間とも思っていないだろう。

 そう考えるならば、人間同士も、個々に尺度を持っているそう考えると、理解しようと努力することは大切だが、完全に理解することはできないだろう。そうであれば、相手を理解するのではなく、思いやりをもって接していればよいのではないかと思う。

 特に、良し悪しの線引きの尺度は最たるもので、人によって変わる。それゆえ、自分の尺度で相手をバッシングすることはナンセンスともいえる。その行動により得られた結果は最終的にその人が受けることになる。それでよいのではないかと思う。

 思いやりというものは、相手を思いやることにもなり、自分を思いやることにもなる。人は人、自分は自分という基本的な部分を押さえておけば、人を批判することも、肯定することもなくなる。この考え方は、お互いがお互いを評価ではなく尊重することになる。

 お互いの粗さがしではなく、お互いの存在そのものを尊重しあえれば良い世の中になるのではないかと思う。

以上、想像の世界でした。

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