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スミレ

湖の底に倒木が沈んでいる。透明度が高い澄んだ水に晒されて、幾重にも折り重なり、あらかたの形を留めたまま、静かに眠っている。

それは得も言われない美しい湖で、畔に年中枯れない幻のすみれが咲いていると言う。

イオナの硬いほほ笑みの瞳の奥に、その湖がある。その湖と村の森の奥にある湖と同じであることを知っているものは、風来坊のシェルドのみである。

シェルドはイオナを深く愛し、笑顔にしていた。そして、瞳の奥の湖を大切にしていた。見つけてきた幻のスミレの花をイオナに贈る。

イオナもシェルドに見つめられるごとに深く愛していく。

村では飲み水が貴重だった。滾々と湧き上がる湖は村の象徴的な生命線だった。その湖の畔を風来坊のシェルドが深く入り込んで、何かを持って帰っていると噂が立った。村の長であるイオナの父は、噂が大きくなるにつれて看過できなくなり、いつまでも湖が美しくあれるようにと、シェルドを湖の底に生贄として倒木として沈めてしまった。

シェルドは湖に深く立ち入ることなんてしたことなかった。身に覚えのない誤解だった。むしろ湖を誰よりも大切に想っていた。身動きが取れないまま、水の中でイオナの名前を囁く。名前を囁くごとに湖のほとりにスミレの花が咲く。

シェルドはその花を摘みに行けない。あれだけ愛したイオナの湖に、我が身を沈める事になるとは、皮肉なことだ。

シェルドはそれでもイオナの名前をずっと囁き続ける。湖の畔にはスミレの花の群落が出来て、瞳にバイオレットの美しい色をつけた。

イオナの父はイオナに村一番の働き者を許婚に決めた。許婚はイオナの瞳の奥に湖がある事を知らない。黙々と富みを授けて、美しい服と装飾品を与えた。美しい瞳に全く気がつかないままに。

シェルドはイオナの湖の底で倒木のまま、名前を囁き、スミレの花を咲かせ続けている。それしかできないことを承知で、神にも祈る気持ちで。

イオナはますます美しく魅力的な女性になっていった。しかし、その魅力に気がつくものは、村には誰もいなかった。そして、その瞳で見つめているものはもう何もなく、一日中沈んだまま死んだように生きていた。

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