幼少期

見てくださってありがとうございます。
簡単なプロフィールを書かせていただきます。

1989年に山の奥にある辺鄙な土地で育ちました。
小学校は、片道2時間かかるぐらい山の中です。
そんな僕が、はじめて友達と遊んだのが中学生の時で、自転車に乗れるようになったのも小学校高学年でした(山の中で坂道しかなかった為)
そして、大人になってわかったのが親からの異常な行動が幼少期の僕にはトラウマのように覚えています。
少しその件に関して説明すると、父親は、僕にほぼ関心がないと思っていました(実は恥ずかしがり?だったのかなと大人の今からわかります)
そして1週間に1回は、レンタルビデオ屋さんでアダルトビデオを3本借りたり、風呂に週に一回しか入らなかったり、おしっこもペットボトルに入れたりする奇行ぶりでなおかつ鬱が酷く夜中にいきなり叫んだりしてたりもしてました。
ただ父は、キャッチボールなどはしてくれなかったですが、レンタルビデオ屋さんに連れて行ってもらって新作なら1本、旧作なら3本を借りさせてもらえてました。
あと、スーパーなどのフードコートで2人でラーメンを食べたりしていました。
そして、今ならわかるのですが、発達障害だも思うのですが、なぜか障害者を見ると今でいうイジリみたいなのをしていました。(不適切な表現ですみません)
多分、不器用な父は、他の家の父とは違う感覚で、それが愛情表現だったのかなと、ふと思ったりします。
そして、母ですが、当時モンスターペアレントって言葉がなかっただけで、モンスターペアレントでした。
40歳時の一人息子ということで、かなりわがまま聞いてもらえたり、ほぼ外食でした。(裕福な家庭ではなかったです。)
その反動で、僕のことは、母が産んだので母は、自分の分身とよく僕に言ってました。
ここでは書けないこともありました。
その影響で強迫観念が強くなったり、眠れない時は、デパスを渡してきました。(当時は、小学四年でした)
一見狂ってる母ですが、僕のことを無償で愛してくれて全てのできることをしてもらってました。
それも、大人になった今でも(この事は、後日説明します。)
僕はというと小学生五年生から中学卒業までたくさんの人を傷つけて親が学校にくるのもたくさんありました。
そこでもみた母の奇行っぷりですが、校長先生の前では泣いていたのに車に乗るとスイッチが変わって、何か食べに行かないか?と言っていたのを深く覚えています。

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