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コミュニティが大事ってなに?オンラインサロンって宗教なの?信用経済ってホント?

人との関わり方が変わり、改めて人の繋がりが考えられている昨今、たびたび話題になるオンラインサロンってなんだよ、宗教なの?を考えたいのコーナーをお送りします。

SNS上では「オンラインサロンは善or悪?10秒以内に正解だと思う方に移動してください!さあどっち!?」ぐらいの勢いで聞かれているかんじが苦手なので、やんわりとnoteに書いていきます。

親密な横のつながりはそりゃ大事だよねってテンプレ話

終身雇用の崩壊や核家族化、晩婚化が進む現代において、とくに都心においては孤独に生きる人が増えているでしょう。そんな人々にはやはりコミュニティが必要です。

ドイツの社会学者テンニーズは、社会が近代化すると人間関係が希薄になってしまうので、古き良き共同体的なものが必要になると言っています。

欲求五段階説でおなじみのマズローも、欲求の最高位にある自己実現を成し遂げた人に共通する特徴の1つに「ごく少数の人と深い関係を築いている」を挙げています。

オンラインサロンでそんな深い人間関係を築けるかはさておき、地元の友達と疎遠になり職場でも表面的な付き合いしかなければ、外部へ新たな出会いを求めるのはそれなりに自然な選択だと思えます。テレワークが進むとほんと仕事だけの割り切ったお付き合いが増えそうですしね。

(✂️ここまでテンプレすぎる話で、以後その捕捉をするグラフとか出して「人と人との繋がりってやっぱり大事ですよね~」って話が終わるの、飽きちゃいましたね。)

価格も月額1万円は高い!と言っても、何かお酒なりスポーツなり趣味を作って友達をと思ったら、同じかそれ以上のお金がかかります。

そして巷では1万円どころか、大学に何十万・何百万円と学費を払ってろくに勉強をせずモラトリアムな日々を過ごしながら、サークルで遊ぶだけな人たちもいます。

そんなダメな大学から、なんとなくの教養さとサークル機能だけを切り取ったものがオンラインサロンだと考えると、お得な気がしないでもありません。学歴は手に入りませんけど。

また、違った年齢層の他業種の人達とイベントごとを通じて交流できるのも、職場の愚痴飲みや学生が安居酒屋でだらだらとコミュニケーションのためのコミュニケーションをしているだけの飲み会よりも有意義な面があるでしょう。

総じて、コミュニティとか横文字使ってないで、大人になってからも利害関係のない価値観が合う友達作れよ!ってだけの話なんですけどね。

地元でそんな共同体を維持できている人達を「マイルドヤンキー」と皮肉った言い方をしておきながら、集まるお題目をお酒・麻雀・BBQから少しズラしただけのローカルな集まりを、わざわざグローバルなインターネットを経由して求めているのは皮肉な話かもしれません。

と、そんな前提はさておき、人間な必要なコミュニティを提供しているであろうオンラインサロンがなぜ「胡散臭い」「(カルト)宗教かよ」と揶揄されているのか考えていきたいと思います。

「悪徳なカルト宗教モドキ」と「健全なコミュニティ」の違いとは何か、たぶん「宗教」「ブランド」「コミュニティ」「奉仕」といったキーワードを軸に書いていく気がしています。

本来的な宗教はブランドか

町内会や同級生など地域性の高い既存のコミュニティと、オンラインサロンの大きな違いの1つは、主催者の物語に共鳴する人たちだけが集まることです。

思想の偏った集団が形成されるからこそ、よくオンラインサロンは「まるで(カルト)宗教のようだ。」と言われるのでしょう。

ただ、よく「宗教」をネガティブワードとして使うのは、オウム事件があった日本だけで、海外では生活や家庭、政治にも深く根付いた文化だ、みたいな話がされています。

日本でも、無宗教と言いながら元旦には大勢で神社へ初詣にいく大宗教行事をしているわけで、確かにあれは全員に根付いた文化です。

オンラインサロンという新しい文化もまた一種の新興宗教だと考えた時、宗教は当然犯罪・迷惑行為ではなく、参加者が支払った金額以上の価値をかんじその人間性の成熟につながるのであれば、別段問題はありません。

偏っていようが、その思想が「先祖を敬い、家族・仲間・自分を大切にしましょう。」「大人になってからも勉強しよう。」など、善いものであればガンガン広まってほしいものです。

集団を特定の思想に染め上げることに一定の拒否感を感じるのは自然な防衛本能ですが、なら集団を避け個人個人が自力で人生哲学を身に着けよう!というのも酷な話といえます。

集団で1つの物語を共有し、生きるルールや指針とすることはある程度必要ではないでしょうか。超人となり自ら切り開くべきだ!って人も一部いるとは思いますけど。

ただ、宗教のように100%すべての人が持つべき倫理観などを、オンラインサロンも提供すべきとは思いません。

社会にはこんな物語に共感する人が1%でもいた方が良いよねってメッセージを伝えることが「オンラインサロン」だったり、より広い言葉を使えば「ブランド」を持つ人々の役割かと思います。

例えばディズニーも1つのブランドであり、一種の宗教っぽさがありますが、全国民が「夢と魔法の王国」の住人になる必要はありません。その物語に没入し幸福になれる人だけがゲートをくぐれば良いでしょう。

そんな文脈で考えれば、「宗教かよ。」は「1%以下の個人どころか、周囲の仲間や家族とも共有される、世界中に広まった素敵文化かよ。」とも訳せます。褒め言葉かよ。それはディズニーやポケモン、エルメスのようなブランド企業が目指す最高なゴールです。

宗教 = 特定の物語を共有する集団
宗教 > ブランド > 新しい文化

という式は、単純化しすぎて正しく宗教に身を捧げる方々にビンタされそうではありますが、「宗教 = 悪」という雑過ぎる誤った式よりも意義ある考え方といえます。

「宗教」って言葉、人によって使う意味合いが違すぎで面倒くさいですね。「ブランド」も成金的な意味で使われがちなところもあり、ポジティブな意味での宗教・ブランドって言葉もある程度取り戻せないと、日本発の文化を育てる障壁になったりしそうだなと思ってしまいます。

・宗教→ヤバイカルト
・ブランド→成金
って脳内変換されるの良くないよね。集団で善い物語を共有するのは良いよねって話でした。

「宗教」に関する僕の認識があまあま過ぎるので、たぶんまた別の機会にnote書きます。

熱狂のリスク

ともあれ、一つの物語を作りそこに熱心なファンを生むからには責任が伴ってきます。

「うちは宗教みたいなもんですから(笑)」と言うからには、その物語がファンの人生の節目節目の大きな決断時にも反映されることを強く意識して欲しいところです。

熱狂できる新しい物語を提供し、そこに没入することを推奨し、日々の生活の判断基準をも変えることを求め、長い期間囲い込んだ後に失敗があった時に自己責任だと追いやるのはさすがに無責任です。個々人の選択だし、全部責任取れとは言わないけど。

その重圧に耐えられるほどの普遍性が高い物語を有名どころの煽り力の高いオンラインサロンが発信できているかは怪しいところもあり、「うちのメッセージこそが真理!既存の文化はすべて古くてバカ!」と発信をするところは危ういなぁと外野から見ています。

「熱狂的なコミュニティ = 宗教 = 悪」ではなく、コミュニティって概念自体には善にも悪もないけど、実際危ういコミュニティは個別にあるよねって話でした。

ではなぜそんなサロンが悪目立ちし、事実として売れているのでしょうか?

悪徳宗教的コミュニティはなぜ生まれるの?

コミュニティって存在自体は有意義なもの。でもオーナーの思想が微妙だとやっぱり危うし、良いコミュニティが広まると良いね!と話してきましたが、それは可能なのでしょうか?

そこで一冊、『完全教祖マニュアル』を紹介しておこうと思います。

先日セールをやっていて、Twitterでも少し話題になっていましたね。

数年前に読んだので中身はうろ覚えですが、だいぶチョケた本ながら、悪徳な宗教的コミュニティがなぜ生まれてしまうのか解説本といっても良い内容になっています。

色々端折って解説すると、教えの中身が浅く、一般社会に反する思想を持ち、わかりやすい現世利益を与え、権威をかざし、疑似科学をかかげ、他の教えを叩くことが、新興宗教的な組織を拡大させる上ではいかにデメリットでなくメリットかを書かれている一冊です。

上記の一行にあるそれぞれの言葉は、まさに胡散臭いオンラインサロンの要素の細かい言語化とも言えます。

そして、コミュニティを成功させるには、これら危うげな要素を消すのではなく増強させることが必要だよ、としているのです。

その理由を一行ずつまとめていくとだいたい以下の内容になります。

・教えの中身を浅くする
→骨太な理論はバックボーンに必要だけど、大衆はわかりやすい言葉しかわからない。

・一般社会に反する思想を持つ
・他の教えを叩く
→新しい宗教は、その時代に苦しむ人達に救いを与えるものだから、自然と反権力・反社会的になる。明確に差別化し、既存の価値観の中で窮屈な人にアピールしまくることで効率的に集客ができる。

・わかりやすい現世利益を与える
→今も昔も人が求めるのはありがたい話の前に、健康/人間関係/お金。

・権威をかざす
→人は学校や会社で偉ぶる人に従う(=正しいと思う)ことを刷り込まれてきたし、自分では何も考えず自信満々な人に従うのは楽。

・疑似科学をかかげる
→一般人は「科学」に信仰を持つ反面、細かい検証はしない。科学的に正しいことより、自分の信じる科学も自分の考えを正しいと太鼓判を押してくれるのが大事。

総じて生きづらい弱者に対して、(正しくなくてもいいから)わかりやすく簡単に幸せになる方法があるんだよ自信満々で言うことこそ、一番簡単にサロンへの集客を行える術なんだよって話です。

前回のnoteに書いたハックに近い話になってきましたね。

「コミュニティは大事だね。そこで中心となる教えは理論的・倫理的・道徳的で善にあふれていると良いね。そんな良いコミュニティがあれば、みんな胡散臭いコミュニティには入らないでしょ?」と理想論的には思ってしまいます。

しかし現実では苦しい人ほど、「清く正しくこつこつ努力して生きましょう!」と言われるより、「あなたが苦しいの今の社会がクソだからだ!新しい世界へ進む仲間を作ろう!現世で成功する最短ルートはこれ!」って言われた方が心に刺さります。

とくに今後格差が広がるほどに、それなりに努力してきたはずなのに息苦しいとかんじる人は増えるわけで、そこに対して「う~ん、でも頑張ってそのまま努力と我慢を続けるしかないよね。」と応じるより、明確にそれっぽい答え(しかも簡単そう)をくれる人に従ってしまうのは道理です。

嘘と優しさ

宗教というと、死んでも次は天国だからハッピーと来世利益な印象も強いですが、来世がハッピーと約束されたからこそ、今が辛くても穏やかに安心して生きれることに価値があったりします。

一部の人は高度な教えに惚れ込んで入信するかもしれませんが、大衆が欲するのはわかりやすく手軽に得られそうな安心です。

結果的な「今の安心」を宗教の提供する価値とすると、そのための方法は来世利益でも現世利益でもかまいません。来世が天国なら安心するし、いま手元にお金があっても安心しますから。

とくに近代以後においては、(収入的格差は広がっていれど)身分差も少なく生まれによって生涯の生き方が決定されるわけでもないので、不確かな来世の天国へ至る道でなく、現世におけるビジネスでの成功・幸せな家庭/恋愛こそが御利益なのかもしれません。

その御利益をインスタントに求める気持ちをたしなめるマジメで退屈な人より、御利益を提供してくれる男気のありそうなヤンキーに従うのは必然でしょう。

ここで問題となるのは、その安心が理論的に正しい必要がないことです。仮に嘘だったとしても、人間は安心できる方の物語を選んでしまうという脆弱性が大元にあります。

そのため、参加者に「あのオーナーが言っていることには、嘘や盛っている部分が多いからやめときな。」と口出しするのはあまり正しくありません。薄々正しくない部分があると本人が感じながらも、その物語を信じたいから支持するのです。

宗教だブランドだと言われると、善や美のイデアを超えた先の神とは?だとか、そのブランドが世代を超えて社会に根付く価値がある意味はどこに?などと細かく考えがちですが、一般にはわかりやすい安心こそが価値です。

コミュニティ自体に善にも悪もないけど、収益向上を第一にコミュニティ拡大の効率化だけを目指していくと、自然に悪落ちするよねって話でした。悪貨は良貨を駆逐する。

原価率と胡散臭さ

とはいえ、ちゃんと道徳さと現世利益のバランスを取ったサロンも存在するかもしれません。

僕も、正しさをかかげとにかくマジメに生きましょう!とだけ語るオンラインサロンが流行ると思えません。

悪目立ちしない程度の塩梅で、収益を上げることだけに振り切らずうまいことやっているサロンもあるはずです。たぶん。

そんなまともなサロンまでまとめて胡散臭いと叩かれる必要はない気がしますが、それでもなおオンラインサロン全体を指して嫌悪感が向けられている気もします。

その原因の1つは、仕入れコストの安そうな商品を販売していると見られているからのように思います。

ディズニーなら何百億と建設費をかけて箱を作り、エルメスも熟練の革職人を率いてこだわり抜いた製品を作っています。ポケモンは基本無形のコンテンツを商品としていますが、その裏にいるクリエイター達の人件費という名の努力は、考えずとも感じ取れます。

そんな前提の中、「オンラインサロンが月額1万円で参加者1000人?年間1億円以上の収入だけど、そのイベント企画は自分でなく、参加者自身に任せているだって?楽してボロ儲けかよ!」って気持ちもそれなりにわかります。まさに坊主丸儲け。

似た価格帯では、学生向けの学習塾なんかもかもありますが、学習のカリキュラムを頑張って作り、夏休みには真剣に生徒に向き合って指導をする講師からすれば、うちの塾の月謝とオンラインサロンの月謝一緒かよって思うのもまた自然です。

オンラインサロン=月額制情報商材!人脈もあるよ!って捉え方は、少々斜に構えすぎではありますが、大きく間違ってもいないでしょう。

もちろん、サロン単体の原価率だけを見るのはフェアでなく、オーナーのそれまでの努力があってこそって前提を踏まえなければいけません。99.9%の人はそこまで集客できませんし、そこまで機能し続けるコミュニティを作るのも非常に困難です。

でも感情的な部分ではそんな複雑に考えられませんし、結局のところサロンに対して熱狂的な人も、やけに否定的な人も、細かく考えず気持ちの部分で反応している面も大いにあるんだなって思えてきますね。

奉仕と労働。信用経済って何?

というわけで、「インターネットを始め無形なモノが価値を生んでいる時代に、物理的な箱を作るのはナンセンス!原価は関係なくコミュニティという目に見えない人の繫がりはブランドのバッグ以上の価値!愛と友情は最高!」理論はいったん受け入れるとしましょう。

そこで別の批判として、参加者を無給で使える労働力にしている!問題もあります。

わかりやすいところではサロンオーナーの実務を、経験や実績になるでしょと無償で手伝わせているのはダメじゃんって話です。あるいは、サロン内のリーダー的な立場の参加者が下の人にアドバイスしていたり、イベントの仕切りをしているなら、それはもう顧客でなくスタッフ的な働きだし、そこには報酬を払うべきでは?みたいな話です。

サロン外の近しい話では、オリンピックで無償のボランティアをたくさん使いながら、運営元や代理店がめちゃ稼いでるってどうなんだよ!ってものがあります。

前提として、自己利益を求めず社会や組織に奉仕するって良いことだと思うんですよね。一方でその純粋な善意を明かな搾取目的で使い倒すお上の人もたしかにいると思います。

これは難しいところで、仮に日当1万円を払ったところでお金の満足度って、お金関係なく好きでやる!って内発的動機を満たす満足度より大抵の場合低くなってしまいます。

よく「アンダーマイン効果」とか言いますしね。(好きでやっていた行動<内発的動機>が、報酬<外発的動機>を与えられることで逆にやる気がなくなってしまう現象)

実際のとこすべての行動をお金に換算するのは無粋だと思いますし、うまいこと線引きして、払うべきとこでは払えば?で話を終わらせたいのですが、最近話をややこしくするのは「信用経済」って言葉です。

元は経済学用語だった気がしますが、界隈では「お金より信用(目に見えるとこではSNSのフォロワー数やYouTube登録者数)の方が価値!日当1万円なんてはした金をもらってどうする!」みたいな使われ方をしている気配です。

ある種、1つの組織でずっと働く時代が終わりつつある中で、新しい形の下積みの形だとも思うんですよね。会社や特定の界隈で偉い人に認められるだけでなく、+αネットでも広く浅く認められるようにしましょうっていう。

『テラスハウス』に参加する面々もギャラでなく、人気集めてインフルエンサーになるぜ!って方こそ真の報酬だと思って応募している面もあると思うので、一定の正しさはあると思います。

ただそれは奉仕する側が判断すべきことであり、オーナー側が率先して奉仕こそ新しい形のイノベーションで信用経済だ!だから報酬は払わない!って言ってたら逃げた方が安全だよって肌感でいます。

なによりこの文脈での信用経済って、お金稼ぐより信用稼いだ方が割がいいぞ!ガンガン稼げ!ってかんじがして、一時の「人脈」って言葉を魔改造したような世知辛さがありますね。「信用」の解像度を落としているっていうか。

「とにかく奉仕。信用を積めば稼げるぞ!」って「ボランティア活動をすれば推薦入試が楽だぞ!」にある、目的消失さをさらに加速していて悲しいなって話でした。

フラットの残酷さ

そんな実在するかよくわからない信用経済ですが、その前提にはコミュニティ内の人間関係は対等・フラットであるって前提があるように思います。

「年功序列みたいな縦社会は捨て、信用さえ積み重ねれば誰もがすぐに成り上がれる世界を作ろう!」っていうのが、基本的な世界感のように見受けられますので。

昭和的な古いコミュニティのルールは捨て、お互いに信用しあってwin-winと優しげなことを言いながら、実情としては資本主義的な勝ち負けのある自由競争を加速化しています。

序盤はみんなで助け合おうといいつつも、最終的には勝者が全部取りするゲームになっているんですよね。

実力主義ってバチバチな言葉を信用という柔らかそうな言葉でうまいことコーディングしたなって印象です。

そして競争に勝てなかった実力を持たざる者は、ただ無償で労働して経済的には吸い上げられて一銭ももらえずお終い感があります。「あなたの努力不足で自己責任だよ。でも友達はできたし楽しかったでしょ。」って声をかけられながら。

そこで昔ながらの昭和的コミュニティだったら、(年功序列だパワハラだと窮屈さはあれど)実力が無かろうがカワイイ後輩には少なくともメシは奢ってやるって兄貴分救済システムがあったのかと思います。

本来、「信用」ってそんな助け合いの文化のバックボーンにあるものだったはずが、信用経済ゲームの参加費として最初に徴収されているのが辛いですね。

一方それは現代日本人が自分勝手になっていてけしからんと、ただ今時の若いもんはって言葉だけで片付けられる話ではないはずです。

景気の悪さで古き良きコミュニティ文化が成立しづらくなり、誠実にしっかりと信用を積み重ねても報われず助けもないって事例も増えてきたからこそ、だったらそんなん捨てて競争世界に身を捧げ一人勝ちしてやる!と消去法で選択している面も大いにあるのかと思います。

昭和的なパワハラ・セクハラのある縦社会から抜け出したい、自分らしさを発揮したい、他の人達より抜きん出た存在になりたい、でも負けたら助けて欲しいって声はわがままで都合の良いものです、しかし、あちら立てればこちらが立たぬって現実も見えてきます。

オンラインサロンって、昭和くさい社会をぶっ壊しフラットな誰にも可能性がある社会を作ろうって理想像を現実へ落とし込んだ時にはじめて見える、理想とは違った負の面を先んじて表している世界なのではないでしょうか。

…と、そんなこんなで8000文字近くになってしまい、一度ここらで〆ておこうかと思います。

社会が変わればコミュニティの形も変わるわけで、オンラインサロンは新しいコミュニティ作りを模索する試みながら、お金稼ぎの道具としてハックされている面も多々あるように見えます。

「素敵」「最高」「エモい」「胡散臭い」「詐欺」「ぴえん」など雑な一言にまとめず、良悪両面を引き続き見ていきたいと思う次第です。

みんな友達を大事にしような🥺


最後までご覧いただきありがとうございました🙇🙇