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スポンテニアスな音楽とは(中村とうようによる坂本龍一批判を再考して)

中村とうようさんの坂本龍一批判をまた改めて考えてみました。
Twitter投稿( keiomr )から引っ張ったもので、相変わらず「てにをは」や句点の間違いがあるかもしれませんが、どうかご了承の程を。

ミュージックマガジンを定期的に読み始めた頃、中村とうようさんがジャズの魅力を説明するのに「スポンテニアス」という言葉を使って、それまでまったく知らなかった言葉そのものと共にスポンテニアスな音楽とはどのようなものか教えてくださった。

スポンテニアスな音楽とは「自然発生的な」感じを醸し出すものという趣旨だったと理解して、今でも時々スポンテニアスとはと考え直すくらいだから、当時DKだった僕相当は大きな影響を受けた。
ジャズ、R&B、ブラジリアン、ラテン、アフリカン、歌謡曲の歌い手。
スポンテニアスな感じがするのは同じだ

記憶によれば、対比として楽譜を読み込んで正確に演奏することが求められる西洋音楽、所謂クラシックを挙げていたように思う。

YouTubeに残る音源には、坂本龍一は細野さんは楽譜が読めないからと語り、細野さんも自分は楽譜が読めないと発言するものがそれぞれある。

超一流のベーシストであり、流行歌の作曲家としても超一流だった細野さんでさえ、西洋音楽的な譜面読みができないことを両者は共に認めていると僕は判断した。
一方で「出来損ないのピアニスト」だったと述懐する浅田彰は明らかに譜面を読んでなければできないとしか思えない発言をしばしば残している

譜面読みというテーマで、坂本龍一を真ん中に置き細野さんと浅田彰を対局に配置すると、「スポンテニアス」な音楽とはどんなものなのか、よりわかりやすくなるように思う。
音楽家でなくても西洋音楽理論を踏まえて譜面を読めれば理解できる。
しかし、それは「自然発生」的な音楽とは程遠い。

僕が聴くたびに毎回いつも「うわぁ…」と新鮮に感動するのがラテンの音楽で、もちろん楽器は違ってもオーケストラのような多人数の編成で指揮者もいないのに、ぴったり息の合った演奏で「スポンテニアス」としかいえない音楽をやっている。

西洋音楽を聴く楽しみは、作曲家や指揮者や演奏家がどう譜面を読んで解釈したかを聴き取ることができなければ面白くもないようなもので、それはまったく「スポンテニアス」な音楽を楽しむのとは異なる。

最近になってバロックから古典派、20世紀前後のドビュッシーやサティらの「印象派」(?)と呼ばれる音楽を好んで聴き始め(19世紀のロマン派は後回し)、西洋音楽を聴く楽しみ方を学びつつあるが、まだまだ初心者ではあれ、これはラテンを聴くのとは全く異なる脳の部位を使うということくらいならわかる。

同じ原稿でとうようさんは客に尻を向けて音も奏でない指揮者が一番偉いとされるとして、クラシック批判を展開していたような記憶もある。
「スポンテニアス」というキーワードを充分に理解した上で坂本龍一のつくる音楽を聞き直せば、なぜとうようさんが執拗に坂本批判を続けたのかという謎は解ける筈

そして、それは坂本龍一の音楽を正しく理解する意味でも必要不可欠なことであることにも気づくはずだ。
ミュージックマガジン増刊号『坂本龍一』は、その千載一遇の機会を意図的に排除して逃した。
繰り返すが、これだけはマガジンでしかやれないことなのに。

ただね、『スコラ』のジャズ編で、チャーリー・パーカーの火を吹くような演奏に上手い酒でも飲み干した後のように喜びに顔をクシャっとさせながら、「メタリカみたいだね」とコメントした坂本龍一は、スポンテニアスな音楽の楽しみ方を知っていたし、そのあり方を理解していて肯定してもいたんだよね。

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