『ママはキミと一緒にオトナになる』を読んで考えたこと


 さとゆみさんの新刊、『ママはキミと一緒にオトナになる』を読んだ。すばらしい本だった。2023年の日本で、働きながら子どもを育てることについて書かれたあまたある文章の中でも、白眉といえるエッセイ集であると思う。読みながら感じたことはたくさんあるが、ふとあるエピソードを読んでいるときに、17年ぐらい前に読んだ一冊の本のことを思い出したので、そのことについて書いてみる。

 30代になったばかりの頃のことだ。当時、私は表参道の会社に勤めていた。すでに上司には退職希望を伝えていたので、責任の重い仕事は任されていなかった。端的に言うと社会人になって初めて暇になった。それで昼休みになると、会社近くの交差点にある小さな書店を覗き、10分ほどかけて文庫本を選び、昼飯を食べながらその本を読み耽るのが日課となった。
「飯を食いながら本を読むとはなんと行儀が悪いヤツだ」と感じる人もいると思うが、かのスティーブン・キングも『もの書きを目指す人間なら、そんなマナーはゴミ箱に叩き込め』(大意)と『小説作法』という本に書いている。「退職後はものを書く仕事に就きたい」と考えていた私にとって、昼休みの読書はトレーニングの一環だった。

 思えばあの数ヶ月の間は、人生の中で大学時代に次いで、最も大量に、濃密に本を読んでいた時期のように思う。今ではほとんど仕事関係の本ばかりだが、当時は自分の楽しみのために本を読む余裕があった。それで、小説もずいぶん手にとった。書店で初めて名前を知った作家のデビュー作を購入し、当たりかハズレかワクワクしながら読むのは、実に楽しかった。
 自分にとっての「上手い作家」「肌の合う作家」かどうかを見分けるコツを掴んだのも、その頃である。
 コツと言っても大したものではない。手にとった本をパラパラっとめくり、真ん中ぐらいのページを開いて、3〜4ページ程読んでみて、面白いと感じたら買う、というそれだけの話だ。解説もあらすじも著者略歴も読まない。前提知識ゼロというのがポイントで、そんなふうに読むと、筆者の文章そのものが持っている力みたいなものを、より感じ取れるような気がしたのである。

 それで、このコツに開眼したのは、北方謙三氏が書いた水滸伝を初めてその本屋で立ち読みしたときのことだった。小説の背景である中国・北宋末期の歴史もほとんど知らず、「水滸伝といえば梁山泊」ぐらいのイメージしかなかったが、適当に開いたページの世界に、いきなり引き込まれた。

 いま手元にある、そのとき購入した『水滸伝』1巻「曙光の章」を開いてみると、201ページからの10ページ程を読んだことがわかる。
 水滸伝には何十人という武将が出てくるが、そのうちの重要人物の一人、魯智深という全身入れ墨の巨魁の坊主が、深い山の中を旅している。するとそこに突然、けもののような追い剥ぎの若者が現れ、襲われる。魯智深はたちまち若者を叩き伏せ、捕まえて縛り上げる。そして血まみれで睨みつける若者を前に、焚き火をして肉を焼き、食いはじめる。そんな場面である。

 二人の関係もバックボーンもまったくわからなかったが、飢狼のような若者と、その若者を片手でひねるように叩きのめす屈強な男の姿が、読むうちに映画のワンシーンのように浮かんできた。その後に続く二人の会話を通じて、ごく自然に両者が生きてきた過去と、魅力的な人格が伝わってきて、先をどんどん読み進めたくなり、すぐにレジに向かった。
 紙に黒インクで印字した文章によって、表参道の書店にいるサラリーマンの男を、おもむろに九百年前の中国の山中にワープさせてしまう、その作家の力量に、「さすが北方謙三……」と唸ったものである。

 と、そんな古い記憶を思い出したのは、『ママはキミと一緒にオトナになる』の、153ページを読んでいるときのことだった。以下引用する。

ーー

 息子氏が家出をした。半年ぶり六度目の家出です。
 きっかけは、お夕飯の席にいつまでもつかないことに、私がキレたことだった。
「いま、ゲームしてるから、ちょっと待って」
 と言ったまま、しばらく部屋から出てこない息子に
「ご飯を食べる時間は、他のことより優先させて」
 と言ったら、
「なんで? 先に食べてればいいじゃん」
 と反論されたので、カチンときた。つい、
「誰のおかげでご飯が食えると思ってんだよ!」
 と、モラハラ夫(失礼。夫とは限りませんね)のような発言をしてしまった。
「しまったそういうことを言いたかったんじゃない」と思ったときには、もう遅い。
 息子はかっと目を見開き、
「それなら、子どもは、大人になってお金稼ぐまでずっと意見を言えないってこと? おかしいじゃん!」
 と、言う。そして
「じゃあいいよ。僕、おこづかいでコンビニでご飯買うから。ママ、勝手に食べなよ」
 と続ける。引っ込みがつかなくなった私は
「いや、そのおこづかいも、誰が渡していると思ってんのよ」
 と、なる。もう、完全に私のほうが論理破綻している。論理破綻しているのだけれど、もう、振り上げた拳が下がらない。

ーー

 冒頭の1ページちょっとの短い文章を書き写してみたが、あらためてキーボードを打ちながら、「、」の位置一つまで考え抜かれた文章の巧みさに唸った。例えばカギカッコの間。「と、言う」「と続ける」でつなげられているわけだが、「と」の後ろに「、」を入れるかどうかも、すべて計算し尽くしていることがわかる(無意識のリズムなのかもしれないが、それだったらさらにすごい)。

 中世中国の山の中の、破戒僧と飢えた若者の血みどろの戦いと、都会のマンションの母と小学生の息子の口ゲンカはまったく違うような気もするが、2人の人間の実存に関わる真剣な闘争という点では、同じであろう。息子の「かっと見開いた目」という記述に、私は餓狼のような若者の、必死に生きる意志と通じるものを感じた。ライターは星の数ほどいるが、文章によって「読者をいきなりその現場に放り込む」という力を持つ書き手は、そう多くはない。さとゆみさんは、確実にその一人だ。

 さとゆみさんの文章のすごさは、他にもたくさんある。例えば職業ライターであれば誰もが頭を悩ますことの一つに「原稿の締めをどうするか」という問題がある。つらつら書いた原稿の最後、1、2行をどう締めくくるか。その言葉の選択によって、読者の心に残る余韻は、大きく変わる。このエッセイ集の中に、友だちとさとゆみさんが飲みながら「離婚が子どもに与える影響」について話し合うエピソードが出てくるのだが、ともすれば深刻なトーンになりそうな話を、これ以上ない突き放したユーモラスな3文字で締めくくったのに、これまた唸った(知りたい人は買って読んでください)。

 まだまだ書きたいことはあるが、最後に文章以外のことで思ったこと。
 2023年4月19日水曜日の今日、私のTwitterを覗くと、タイムラインはAIの話でもちきりである。とくにライター界隈は、AIをどのように使いこなして文章を書くべきか、あるいは「書き仕事」の多くが近い将来、AIによって代替されるようになるのではないか、という懸念が話し合われている。確かに私もchatGPTを少し使ってみて、これは相当に私の仕事の領域に影響を与えるな、と感じている。

 そんなときに、さとゆみさんがこの本の元になった連載を、(息子に宛てた)「遺言みたいだなと思いながら、書いてきた」と述べているのを目にした。それを読んで、「そうか、AIは死なないんだよな」と思った。

 ライターが、人間が、文章を書く意味。
 人間が、誰かに向けて、書き残すことの価値。
 そんなことを、本書を読んで考えたことが、最大の収穫だった。
 子育てのさなかにいる人は、きっと本書から、大きな勇気を得られるだろう。すべての人は、誰かに子育てされたから、いまこの世にいるんだよな。
 


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