生きている老夫婦
原稿に詰まると、よく本棚から藤沢周平の文庫を引っ張り出して、適当なページを開いて読む。藤沢の端正な文体が、自分の文章に乗り移ってくれることを期待してのことだが、効果があるのかどうかはよくわからない。
今日は『竹光始末』を手にとったのだが、その中の短編、『恐妻の剣』に出てくる老夫婦の描写に、ほとほと感心してしまった。主人公の恐妻家の武士が藩から命じられて、脱藩した2人の武士を探索している途中、立ち寄った茶屋のシーンである。ちなみにこの老夫婦は、話の本筋にはほとんどまったく関係ない。以下、書き写すのでご一読いただきたい。
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「侍が二人、ここを通らなかったか」
作十郎は茶店の番をしている年寄りに聞いた。茶店といっても百姓家の軒先をひろげて、縁台を並べただけのものである。茶を運んできた老爺の手は節くれ立って、不器用な手つきだった。
「さあーて」
老爺は盆を掲げたまま、腰を伸ばした。
「気がつきましねえのう」
「昼すぎに、ここを通ったはずだが、ここへは寄らなかったのだな」
「へい。今日はお客が少なくて、ええーと昼前に三人、昼過ぎてから二人」
その時背後の煤けた障子の陰から、女の声がした。
「ぼけてんだから、うちの爺さんは」
声は老婆のもので、この年寄りの連れ合いが部屋の中にいるらしかった。爺さんののんびりした口調にくらべて、早口ではきはきしている。
「侍が二人きたけど、寄らないで通り過ぎたと、爺さんに言ったじゃないか。昼ごろだろ、あれは」
「ほい」
と老爺は言った。
「わしが見たもんでなかったので、忘れていました。そういえば婆さんがそう言っていましたで」
「ほんとにぼけてしまって」
障子の陰の声が言った。
「いま飯喰ったことも忘れる人なんだから。この間だって、町に行くっていうから、忘れねーで縫い糸買って来てくれって言ったのに、ぺろーと忘れて」
「うるせえ」
障子に向かって老爺がどなった。
「いつまで同じことのひとつことを言っている。あれは婆さんの勘違いで、おらそんなもの頼まれたおぼえはねえぞ。何べん言ったらわかる。このばばあ」
「勘違えなもんかよ。爺さんが出かけるときに、おら二度言ったもんな。それを忘れてきたから不便でしょうがねえよ」
「ところで、その侍だが」
作十郎は二人の口喧嘩に割って入った。
「右に行ったか、左に行ったか解らんか」
「おらそこまでは見なかったもんな。店の前を通りすぎたのを見ただけだから」
と、障子の中の声が答えた。
「お城の人だぞ。気いつけてもの言え、この礼儀知らず」
老爺が、また障子に向かって喚いたが、障子の陰から答えはなかった。
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いかがだろう。面白いと感じてもらえたら嬉しい。私はこのくだりを読んで、老夫婦のこれまでの関係性はもちろん、障子の陰から出てこない老婆の姿までもが浮かんでくるような気がした。主人公が恐妻家という設定なので、あえてこんな二人が出てくるシーンを藤沢は入れたと思うのだが、話の本筋にまったく関係ないのがまた面白い。この二人は、小説の中で完全に「生きて」いる。ふだん私が書いているのは、実際に生きている人に取材した記事がほとんどなのだが、この老夫婦のように生きている感じが文章から漂ってくるだろうか、と考えてしまった。
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