人生の惑い・ 中年の惑い・青春の惑い・・・では、老人の惑いとは?
原佑(タスク)哲学者(1916~1976 東大教授)は言っている。 含蓄に富む言葉である。
「中年の惑いは、おのれの何であるかを知るにいたったがゆえの惑いであるに対して、青春の惑いは、おのれの何であるかをいまだ知らないがゆえの惑いである。
おのれの可能性への挑戦こそ青春の持つ特権である。
他人の幸福を羨望し、おのれの不運を嘆いたとて、いったい何になろうか。
それは、私が私以外の他人となることを望むに等しいことであるからであり、私は、私以外の何ものにもなりえないのである。
私たち人生のすべてを単なる必然とあきらめるのでもなく、また、単なる偶然にゆだねるものでもなく、まさしく贈られたままの運命として、わが身に引き受けなければならない。」
では、老人の惑いとは何だろう?
老人という年齢になって今さら考えた。
やり残したこと・・・いっぱいある。
これからでもやりたいこと・・・いっぱいある。
ああすればよかったと反省すること・・・沢山ある。
しかし、私の持ち時間は少ない。
人生に満足しているか?・・・と言われると、
「満足はしていないが、少なくとも後悔はしていない」
生まれ変わっても今の妻と結婚するか?・・・それはわからん。多分、ない・・・
この歳になって、過去に拘泥したってなんら生産的でないし意味もない。
強いて老人の惑いというなら、介護生活、認知症、がん、ピンコロ・・・etc.
しかし、私はそれも考えない。
考えてもどうにもならないことは、精神を疲労させるだけだ。
考えていることは、今日という日を心が喜ぶ日にしたいだけだ。
ただ、憂うことはある。
私利私欲を追う日本及び世界の政治家たちと富豪、果たして孫たちの世代の地球はどうなっていくんだろう。