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犬の記憶

 昨日は久しぶりに美術館へ行った。久しぶりの美術館、という響きはなんだか頭をワクワクさせてくれる。だから、行こうと決めた前日から少し体が浮きだって、しまいには、美術館付近でファミリーマートかと思って道路を渡った先が「お水屋さん」だったりもした。白を基調に緑と青のラインが引いてあったら、それはもうファミリーマートでしょ。心の中で悪態をつきながら、また反対岸の歩道へ渡って本物のファミマへ入店した。

限りなくファミマに近い


 
 向かった先は、宜野湾市に位置する佐喜眞美術館だった。丸木位里・丸木俊夫妻の「沖縄戦の図」という屏風絵を常設展の中心に置き、「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」に関わる美術品を展示しているのが特色だ。この美術館が嘉手納基地の隣に立っているという時点で、館自体が批評性を持っているようでもある。


 常設展の作品では、まずケーテ・コルヴィッツの作品が目に留まる。ケーテ・コルヴィッツは、1867年生まれの版画家であり彫刻家だ。コルヴィッツは、ドイツ帝国、ヴァイマル帝国、ナチス・ドイツ政権下のドイツで生き、「母と子」をテーマとした作品を多く残した。

 佐喜眞美術館で展示されている彼女の作品の中でも、『種を粉に挽いてはならない』は特に力強く、僕は好きだ。
 母親らしき女性の腕の下で、三人の子どもたちがしきりに腕の外を見つめている。母親の身体は非常に太い輪郭を帯びており、腕はひときわ目立って力強いタッチで描かれている。母親の加護の下で、なにか企むように微笑んで、または静かになにかを見つめる子どもたちは、小さい頃の自分自身やその周りのことを思い出させる。どの子どもも、母親の身体の外側へ視線を向けているのが印象的だ。

 僕の母は、コルヴィッツの作品が好きだった。僕が一人暮らしを始めてからはじめて実家へ帰ると、コルヴィッツの画集がリビングに飾られていた。僕は母の腕に、いつもコルヴィッツの描く母親のような太い輪郭を感じていた。それに、母は『ピエタ』のような状況をなによりも恐れて、僕を育ててくれたと思う(ここでは『ピエタ』については細かく書かないが、これを読んでいる方々にはぜひ調べたり直接見てほしい)。

 ずいぶん感傷的にコルヴィッツの作品を眺めていると、次第にひとつの問いが生まれてくる。

「それでは僕も、コルヴィッツの描く母親のように力強い輪郭を持った人間になれるだろうか?」。

 僕は、そうなりたい、と思う。これからも、コルヴィッツの描く子どものように、外側を見つめて企みながら成長しながら、ゆっくりと6Bくらいの濃さの輪郭を帯びていきたい。もう二十歳なんだし、それくらいの自立した輪郭を持っていて当たり前では?という思いも浮かんできて、焦りを感じる。しかし、きっと、人はいつまでも誰かの子どもであることをやめられないし、だからこそ一生輪郭は細くなったり太くなったりしていくのだと思う。
 筆跡は受け継がれ、注がれて、僕たちはさらに筆を加えて自身を形成していく。もっといえば、その筆跡を受け渡してくれる人は、親でなくともいいのかもしれない。


 そして、やはり丸木夫妻の『沖縄戦の図』『チビチリガマ 読谷村三部作』は衝撃的。チビチリガマの集団自決や、戦場となった沖縄の地上が、黒い濃淡と、炎と血の色の赤、海の青色(火や戦場から逃れるための海)で描かれている。

 高さ4mの『沖縄戦の図』は、それだけで沖縄戦を描き切っているかのように思える迫力だが、実際は屏風絵のような状況がその数百倍、数千倍もの範囲で繰り広げられたのだ。絵を見ているうちに、それが沖縄戦の縮図のようで、逆に縮図からはみ出したあらゆる悲惨に想いが及ぶようになる。


 全体に黒く覆われた絵の中で、そこだけ余白が残されたような部分がある。それは多くの人が渡ってきてははみ出してしまった道に見える。その道の先をゆく、風呂敷包みを頭にした少年。道はどこまで続いて、少年はどこまで行くのだろう。丸木夫妻の描く絵における余白は、いつも意味を持っている気がしてならない。


 それに加えて、今期やっていた企画展『「復帰」後 私たちの日常はどこに帰ったのか展』も、とても印象深かった。

 特に、阪田清子という作家の作品『思い出せない言葉』が良かった。
 どこから集めてきたのだろうか。徴兵された青年の写真、手紙、そして彼の訃報を知らせる文書らの言葉の上に、塩の結晶が丁寧に置かれている。真横から見れば、薄い紙の上に、さまざまな高低を作る塩の結晶の一群が位置している。

 「生命の源から作り出されたそれらは、死者が眠る墓標のようである。また、写真や手紙の上に結晶を置いていく行為は、他者の記憶との対話であり、もう2度と戻っては来ないものたちへの祈りでもある。」と、作家はモチーフを説明する。

文書や写真の上に置かれる塩の結晶
作品を横から見てみる


 活字は紙の上に置かれ、紙と一体でありつつも、人間に対して明確に存在感を発する。僕たちは活字を捉えるとき、有形のそれ自体を認める行為から、文字の連関という無形の動きへと身を委ねる。だから、人は文字を読む行為をときに無意味なものだとも考える(なぜなら「言葉と言葉を関連付けさせる=思考)しない限りは文字は無意味であり続けるから)。

 しかし、阪田の作品は、平坦な活字を、もう一度有形へと構築し直す。そこには、塩の結晶の形のばらつき、横から見る微かな高低差のように、一文字一文字ごとが生み出す感情の動きが伝わってくる。また、それらは影を作り出す。そして、僕たちが無形なものを目にするとき、そこには有形とも無形とも言えないなにかが作用していることに気がつく。

時が流れるとは
自転にあやかっていたい者の錯覚だ
黙っているものの奥底で
本当はもっとも多くの時を時が沈めているのだ

金詩鐘 「錆びる風景」

著:金詩鐘 編:丁海玉,『祈り 金時鐘選詩集』, 2018, 港の人

 ふと、詩の一節が頭を過ぎる。海に溶けきった塩のような記憶が、いつまでも無形のまま、僕の頭の中に沈んでいる。そして、塩を結晶化させるように、よどみきった思考を蒸発させ、一握りの言葉を得てみる。そこに、温度や感情が宿り、自覚された時をつかんでみることができるのではないか。


  ひととおり展示を見終わり、時間を見ると、まだ入館して一時間しか経っていないことに気がつく。すっかり一時間半から二時間は経っていると思い込んでいたけど、気のせいだったようだ。文字を読むにはいつまでもグダグダしているのに、美術館はさっさと見終わるタイプなのかもしれない。

美術館の玄関


 美術館の帰り道、古本屋に立ち寄って、何冊か本を買ってバス停へ向かう。しばらく古本屋へ行ってなかったので、数冊買ってしまった。部屋の本棚から本がはみ出してしまい、完全に積読状態になっているのに、安いと買ってしまうのは悪い癖。図書館に行っても、目的の本だけじゃなくて気になる本もついつい手を出して、いつのまにか10冊両腕に抱え込んでいることも稀じゃない。
 だけど、ちょうど今のようなレポート地獄の季節になると本棚からはみ出した本、余分に借りた本が功を奏して、完成の手助けをしてくれるから、悪い癖なのかもよくわからなくなってる。(ランボオも言う−「おれがしっかり思い出しているとしての話だが」)

 ただ、この前全く本を読まないという友達が、畳に寝そべりながら「実はお前、一冊も本読んでへんやろ!」と言ってきたときは、変な汗をかきそうになった。なぜなら、これだけ本があるのに未だほとんど読めてないのは、一冊も読めていないのに等しいのかもしれないから。

 バス停脇に座ってレポートのために本を読んでいると、たまたま通りがかった犬がお尻フリフリ、僕の手をひとなめしてきた。

 犬の飼い主が「こら!だめっ」と飼い犬の首を引っ張る。つい笑ってしまった僕も、なんだかおいてけぼりのような気持ちになってしまう。犬の舌は暖かった。太陽は、ただ単に熱い。

 犬に手をひと舐めされて、おいてけぼりされる感じ。それは、見知らぬ人から寄せられた好意のような、知らない街に出たときの浮きだった感じのような、心もとなさだった。

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