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間・詩人

 北上山地の畑ワサビの植った森を歩いていた時や、大学の授業中にふと思う。僕が詩を書いていたって、なにになるんだろう。言葉を、バスキアの筆跡や、グレン・グールドのピアノのように、気まぐれで劇的に並べて、「詩」を見せることもできるだろう。だけど、そんな言葉の使い方がむなしいと思ってしまうのも心のうちの事実なのだ。

 ファッショナブルに言葉を扱うことが、詩的だとは限らないし、むしろ詩とはかけはなれうることを知っている。それは視覚の問題ではなく、十二単を引きずる衣端の音に、無責任に憧れることの問題なのかもしれない。

 意思伝達のためだけの比喩も、荷物を送り届ける貨物列車と同じだ。目的遂行でしかない。繰り返される凡庸な例え話も、重ねれば重ねるほど痛々しく感じる。


「なにをどうたとえるかはとても重要なんだ。糸を選んだら、その人は自分が想像する世界で、取り返しがつかないほど壊れてしまうかもしれない。草を選んだら、君がいったように僕らは根っこという無限のつながりを持つことになる。この根っこがあれば、誰かを理解するだけじゃなくて、だれかになることもできる。たとえにはたとえ以上の意味があるんだ。」

ジョン・グリーン 著/金原瑞人 訳, 『ペーパータウン』, 岩波書店


 なによりも詩は、自分の歌としてその言葉らを身体の内に響かせること、あるいはノミで木を彫る時の「取り返しのつかなさがむしろ今を推し進めている」という実感のかたまりであってほしい。歌を歌うということも、彫刻することも、自分を状況に埋め込むことと似ている。

 その上で一つ、僕が僕に提案する在り方。それが「間・詩人」。

 比喩表現を、「意思伝達」の手中に収めず、むしろ駆け出し、溶け出し、飛び出すように仕向けてやること。日常の合間や、言葉が置かれるフィールドで、「変な言葉使い」をしてみること。異質な言葉とイメージ同士をつなげあわせて、比喩とさえ捉えられない実験を定期的にしてみること。それが、「詩人」でもなく「詩人ではない人」でもない、誰でもが試しうる「間・詩人」の表情と生活だ。

 そのためには、いくら失敗してもいい実験室が必要だ。それでは、まず、親しい人との会話を、実験のための「場」として動き出してみよう。お互いの言葉を面白がって、笑い、泣き、怒り、驚く。そうだったら、もう最高だ。

 この前、僕は、「ふーっ」とため息を吐きながら畑仕事を終えて帰ってきた彼の表情に「詩」を感じた。

 既知と未知をつなげ、「これから」を構築するのが僕らならば、僕らの時代の「比喩」もまた既知を突き進む未知の生物であるべきだ、と思う。
 未知と驚きのつまったなにかであることを既に知っていたとしても、あらためて素直にびっくり仰天してあげることが、「言葉」に対する祝福のしかただと思うし、そうやって人は瞬間的に詩を自らのうちに積み上げていく。そうやって、「間・詩人」なりに生まれてきた言葉を喜んであげたい。

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