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野を駆ける山姥 (前編)

あるところに、子を身籠った女がいた。

女は位の高い武士の妻であった。

女が身籠った時、女の夫は妻の懐妊を大いに喜んだ。周囲も跡継ぎだ、これで御家は安泰だと騒いだ。

それを女は嬉しそうに眺めながら、
お前は男か、それとも女か。どちらでも良い。はやく顔を見せておくれ。
と、自分の腹を愛しげに撫でた。

しかし、どうしたことか。
十月十日過ぎても子は産まれない。女の腹は満月のように膨らみ、とうとう重くて動けなくなってしまった。
このままでは子供どころか女の命も危ない。

焦った女の夫は都で評判の祈祷師を呼び、早く女が産気付くよう何とかしてほしいと頼んだ。
祈祷師の男は女の腹を見るなりこう言った。

「奥方のお腹にいるのは、鬼の子です。次の満月の夜には産まれます。

ただ、鬼の子は災いの子ですから、産まれたらすぐ、どこかへやってしまいなさい。」

女の夫は大変怒って、祈祷師を家から追い出した。

次の満月の夜、本当に女は産気付き、大きな男の赤ん坊が産まれた。

真っ赤な肌に、生え揃った歯。そして額に小さな角。祈祷師が言ったとおり、赤ん坊は鬼の子だった。

それでも女の夫は喜んだ。

「この子なら、戦になっても立派に武功をあげるだろう。
元気な息子じゃ、跡継ぎじゃ。」

しかし、周囲の人々は違った。

「殿様に鬼の子が産まれた。鬼の子は災いを呼ぶそうだ。
怖い、怖い。」

そのうち、こんな噂がたった。

「殿様の奥方は殿に隠れて鬼と契ったのだ、だから鬼の子が産まれたんだ。」と。

最初は気にしなかった女の夫も、周囲から火のない所に煙は立たぬ と言われ、女を疑い、冷たい態度をとるようになった。

女は失望した。

この子さえ産まれなければ、こんな事には。

私はちゃんと、夫との子供を産んだのに。

夫には責められ、周囲は遠巻きに怖がったり同情したり。懐妊した時はあんなに喜んでいたくせに。

なにもかも、この子のせい!この子が私に災いを呼んだから!

女は泣きながら、眠る我が子の首に手をかけた。

と、頭の生え際がズキンと痛む。

触ってみると、固い木の根のようなものが指に当たった。

そういえば...。
女は、小さな頃の事を思い出した。

昔、私にも額に角が生えていた。
若くして死んだ母が、角を削ったのだ。
「お前は人になるんだよ、人の世に紛れ、幸せになるんだよ」と。

そうだそうだ、そうだった。

私は野を駆け、木に登り、獣と遊ぶのが好きな子供だった。

しかし、大人から人の世に暮らせと言われ、角を削り、人に混ざり、人が食べるものを一緒に食べ、人が面白いというなら一緒に笑い、人が悲しいというなら一緒に悲しがった。

窮屈で窮屈で仕方無いのに、そのうちそれが普通になって、とうとう自分が鬼である事さえ忘れた。

私が、鬼だったか。

女は我が子の頬を撫でた。

私は人に姿が似ているから、人と暮らせた。だが、この子の真赤な肌で人に紛れるのは無理だろう。

鬼の子は、人に災いを呼ぶ か...
鬼とはいえ、まだ小さい赤子ではないか。
人と姿形が違うからと、何故そんなに忌み嫌うか。

この子が何をした。
お前達に、何をした。
ある事ない事噂しあって、他人の幸せを潰しておいて。

大きくなれば、災いを呼ぶと、誰が決めた。
可愛い我が子が、災いなぞ呼ぶはずがない。

呼ぶとすればお前達が悪いのだ!
勝手に怖がって、勝手に除け者にする、お前達が悪い!

こんな所で赤子を育てていられるか!!!

女は立ち上がると、眠る我が子を体に紐でくくりつけ、寝間着のまま邸を飛び出した。

夜の闇を、女は物凄い形相で走り抜ける。

鬼の子だというだけである事ない事言い触らした周囲が、
それに惑わされ私を信じてくれなかった夫が、
なにより周囲の言うことを真に受けて我が子を殺そうとした私が。

憎い、悔しい。憎い、悔しい。と泣きながら。

野を駆け、川を越え、山を登り...

女の細かった足はみるみるうちに太く逞しくなり、白かった腕は赤黒く変り、小さかった手は節くれだった大きな手になった。

三日三晩、脇目も振らずに走り続け、たどり着いた先の山奥で、疲れはてた女は膝をついた。

背中に括った鬼の子が、乳を欲しいと泣いている。

女は我が子に乳をあげようとしたが、疲れてしまって動けない。

ここは何処だろう?
頭に血が昇ってしまい、がむしゃらに走ってきたけれど。

あぁ、我が子が泣いている。早くお乳をあげなければ。

どうしよう、とても疲れて動けない。

この子には私しかいないのに。先の事を考えずこんな山奥まで来てしまった。

鬼の子とはいえ赤子。私が死んだらこの子も死んでしまう。

ごめんなさい、ごめんなさい。私が勝手に邸を飛び出したからこんな事に。

女は鬼の子と一緒に泣いた。
都にいた頃は悲しくてもこんな風に泣いた事はなかった。
誰もいない山奥で、女はおんおん泣いた。

すると、誰もいないはずなのに草影からゴソゴソ音がする。

大変だ、熊か猪か。こんな所を襲われたら。
でも動けない。誰か助けて。

しかし、そこから出てきたのは通りがかりの老婆であった。

「へぇ、びっくりした。山姥なんてはじめて見たわ。」

女は必死で訴えた。

「私は山姥ではございません。都から我が子を背負ってここまで逃げてまいりました。

三日三晩走っておりましたので、疲れて動けないのです。我が子にお乳もあげられないのです。
どうか、食べ物とお水を恵んで頂けないでしょうか。

貴方様には絶対に、絶対に危害は加えませんから。いつかご恩をお返し致しますから。

お願いでございます。お願いでございます。」

老婆はじっと山姥と鬼の子を見つめた。

「...わかった。動けるようになったからって、私を食べるんじゃないよ。」

老婆は山姥に自分の持っていたおにぎりと竹の水筒を渡した。

女はそれをペロリとたいらげ、すぐ鬼の子に乳をあげた。

老婆は言った。

「あんた、もしかしてその子を一人きりで育てる気かい?それは山姥だって無理だ。絶対に無理だ。」

女はそれに喰ってかかった。

「それは私も承知しております。

しかし、都では鬼は災いを呼ぶと忌み嫌われており、とても我が子を育てられる場所ではないのです。

私が一人で育てるしかないのです。
出来なくても、やるしかないのです。」

すると老婆はやさしく諭した。

「人の話は最後まで聞きなさい。獣ではないのだから、人にそんな牙を剥いて話すものではないよ。

都で鬼の子は忌み嫌われるらしいが、ここではそんな話聞いたことがない。

あんたの気持ちはよく分かった。だが、やっぱり赤子を一人きりで育てるのは無理だ。

そこで、どうだろう。私と一緒に暮らさないか?

私は村の外れに住む婆さ。私の家族はとうの昔にはやり病で死んでしまって一人身だ。お前達を家に呼んで困る人間はいない。

村の人間も、若い男は戦にとられ、女子供と老人しかおらん。

物騒な世の中だから、あんた達みたいな鬼でも、いてくれた方が良いんだ。

赤ん坊の面倒だって一緒にみてやるから。」

女は狼狽えた。

「そんな風に言って頂いて、とても嬉しく思います。

しかし、私達は鬼。ご恩がある貴方様に迷惑をおかけする訳には参りません。

私達のせいで貴方様に災いがふりかかってはいけない。」

すると老婆は怒りだした。

「こんな可愛い赤ん坊が、災いな訳があるか!!

人間は育て方で立派にもなれば、盗っ人にもなる。

鬼の子だってそうだろう?

母親であるあんたがそんな事でどうする!!

私と一緒に育てよう。災いがくるなんて言った奴らの鼻をあかすくらいの、立派な子に育てよう。」

女はその言葉にいたく感激した。

「ありがとうございます。ありがとうございます。

この子を可愛いと言ってくださる方とお会いできるなんて。

たしかに、私一人でこの子は育てられません。

私が出来る事なら何だってやります。この子だって、大きくなったら貴方様の役に立ちます。
私たちに恩返しさせてください。

どうぞ、一緒に暮らさせてください。」

老婆は笑った。

「いやいや、そんなに深々とお礼をするなんて、ずいぶんと品の良い山姥がいたもんだ。

まずは私の家に帰ろう。そしてあんたは眠りなさい。

三日三晩ずっと走り続けていたんだろう?産後の体で、いくら山姥でも死んでしまうよ。

あんたが死んだらその赤ん坊はどうなるんだい?

とにかく、母親が元気にならなきゃはじまらないよ。」

老婆の家への道すがら、女は泣きどおしだった。
嬉しくて泣くことがあるのか。涙は止めどなく流れ、拭いても拭いてもきりがなかった。

こうして、山姥に姿を変えた女と鬼の子は老婆と一緒に暮らすようになった。

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