人は意志で運命を超えられる生き物なのか、という話

本当の意味で、”自分がしたいこと”を分かっている人はどれくらいいるのだろう。

生きていれば(特に最近は)数々の刺激や情報に触れなければならない。もはや選択的に情報に触れに行くほうが難しくなった現代社会において、望む情報に望むタイミングで触れられる機会は、ほとんど無いに等しい。
僕らが情報に対面するたいていのシーンは、GoogleやTwitterの賢い方々が作り上げたアルゴリズムに操作されて作られた、言うなれば「機械仕掛けの偶然」だ。

そんな情報まみれの時代を生きながら、自分が心の底から取り組みたいと思える物事を見つけたり、実際にそれらに時間を投じたりできるのは、一握りの幸運な人間だけなんじゃないかと思う。

前置きが長くなったけれど、僕はこのところ、人の「意志」について考えることが多い。そんなものは存在しないかもしれないが、人間は自由意志を持つ生き物だという前提に立ってこの文章を綴る。

人は自由意志によって運命を超えられる生物か

意志の話をするときに決まって顔を覗かせる論点が「運命論」だ。僕は「人は、背負った運命を自由意志によって捻じ曲げ、ぶち壊しながら生きていける生き物」だと考えている。まずは運命とは何か、という点について考えてみたい。

すでに考えたことがある人には分かるかもしれないが、人が何かを考えたり行動を起こしたりする際に、何が最上位の要因となっているのか、という話において「運命」の存在は外せない。「神の意志」と言い換えてもいいし、「台本」でもいい。

「生まれたときから決まっている筋書き」のことを運命と呼ぶが、人の意志はこの筋書きによってあらかじめ決まっており、今、まるで自分のもののように扱っている意識ですら、台本通りの筋書きでしかないのだとしたら、果たして人に意志は存在するのだろうか。

この議論に終止符を打つには神やそれに近しい上位存在がいること、その存在が人の生命に干渉していることを証明しなければならないわけだが、今のところ手がかりはゼロだ。だから、僕らが選ぶべき道は真実の探求ではなく「捉え方」の探求に他ならない。いわば哲学だ。

運命は存在するか

僕は、少なくとも「運命のようなもの」は存在すると思っている。有り体に言えば「このままいけばこういう人生を送るんだろうな」という、無難なルートのことだ。無難とは言ったものの、当の本人にとってはドラマチックで山あり谷ありの人生であることに違いはないだろう。しかし、運命を乗り越えようとする人が直面する苦難と比較すると、平坦な道のりになりやすい。

とはいえ、ジョジョ第二部の主人公ジョセフジョースターのように覚悟を決め、「運命に従うぜ」と言い切って生き抜く例もあるように、運命に従ったからと言って平坦になるとは言い切れない。

現実的なところでいえば、生まれた家庭環境や兄弟姉妹の存在、自分の身体的特徴、国籍、肌や目の色なんかも「運命」を決定づける要因になりそうだ(本当の意味での運命ではないと思うが、現代社会において大きな影響を持つ、という意味では運命と呼んで差し支えないだろう)。

さらに分かりやすく例を挙げると、日本にもゲットーやスラムのような街は存在し、そこで生まれ育った人はその文化の影響を色濃く受ける。非行や犯罪が横行する街で日々を送れば、行動様式もその日常に染まる。これを運命と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

運命と対峙したとき、人は2種類に分類される

誰にだって運命みたいなものは存在する。そして、運命が自分にとって好ましいものであれば、その運命は神からの祝福として目の前に広がるが、好ましくない運命だった場合、人は選択を迫られる。「乗り越える」か「従う」かの2択だ。人間を強引に2通りに分けようとした場合、僕は「運命を超えようとする人」と「運命に従って生きる人」の2種類になると思っている。

こう書くと「”運命を超えようとする”のも運命なのでは?」という横槍が入りそうだけれど、それに対しては「その運命すら超える意志がある」のような無限メタ構造のループに入ってしまうので、いったんこの段階で止めて先へ進めたい。

まず運命に従うのは簡単で、定められた道を歩けばいい。歩く最中で苦しい思いもするだろうが、運命という道を踏み外すことは許されない。だから従うルートを進む人にとって人生は「我慢」の連続になるだろう。

いっぽう、運命を乗り越えるのは生半可ではない。まずはさっき述べた運命となり得る要素(生まれた家庭環境や兄弟姉妹の存在、自分の身体的特徴、国籍、肌や目の色)を受容し、それが社会からどのように扱われているのかを把握する。
次に、運命の影響をできる限り排除した状態で「自分が歩きたい道」を再定義しなければならない。その道を歩こうとしたときに、もし運命が邪魔してきたのなら、それらをねじ伏せる方法を考え、実行し、一歩ずつ進まなければならない。

こうして考えてみると、人は運命を超えられる生き物だとは言ったものの、実行できる人はそう多くないようにも思える。運命に逆らう強い意志が何より大切になるが、ここでようやく「それでは意志とは何か」という問題が再浮上する。

操作された反応ではたどり着けない境地を意志と呼ぶ

厳密な定義はさておき、僕は章題のとおり「刺激に対する反応」ではたどり着けない境地にあるものを意志と呼びたい。
強く、純粋で、熱を持ち、狙いすました冷静さを伴うエネルギーの塊のようなもの。生命力の結晶みたいなそれを意志と呼びたい。

その境地にある意志は、自身を取り巻く環境や社会のあれこれ、自分の気分や体調といったあらゆる要素の影響を受けない。反応によって生まれた浅い考えではないから、日によって思いの強弱はあれど、形が変わることはなく、ただそこに存在し続ける。一等星のようなものだ。

冒頭でも述べたが、とかく近年は情報や刺激が多い。ネオンの灯りで星の光が見えなくなるように、今は、自分が自分の一等星を見つけることすら難しい時代だ。

だからこそ、無心で夜空を見上げる時間が必要だと思う。

虚空を見上げる時間は、大変な苦痛を伴う。言い様のない寂寥感や莫大な孤独感が襲う。圧倒的な暗闇が自分を呑み込み、地についていたはずの足の感覚が消え、自分という存在がひどく曖昧なものに思えてしまうかもしれない。でも、それが必要だ。

極限の不安や孤独の中で、一瞬でも見える光があったのなら、それが自分の一等星になり得る星なのだと思う。その存在を知覚するには、怖がりながらも、真っ暗闇に五体投地しなければならない。安いネオンの灯りで安心していては、決してたどり着けない境地に、今も忽然と光り続ける星がある。

その星へ向かおうとする気持ちを、熱を、原動力を、僕は意志と呼びたい。どれだけかかるか分からない。たどり着けるかも分からない。頼りない光へ必死に手を伸ばすとき、気づけば人は運命という重力から解放され、自分を見えない檻から解き放てるのではないかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?