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緋色病 第五章

生き残った人間を山河で迎えるのは、希望か、絶望か。
それでも生きる。なんのために。

 この章ではらい病のたとえが出てきます。忌み嫌われる伝染病という意味で使われていて胸が痛みますが、この小説が書かれた当時「ハンセン病」という呼び名はなかったので、原文どおり「らい」としました。

 アワニー・ホテル 1926年起工、翌年開業。贅をつくしたクラシック・ホテルで、国定歴史的建造物。
 二十世紀初頭、ヨセミテには山小屋のような施設しかなく、上流階級が滞在できる一流ホテルが必要という理由で建設されました。 最初この章を読んだ時「あ、アワニーだ」と思いましたが、本作が書かれた1912年当時は、建築計画さえありませんでした。ロンドンの想像力には本当に驚かされます。(写真:自宅近くの公園の野ウサギ)

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 二日間、わしは屍のない気持ちの良い森で過ごした。この間、いつ発病するか気が気ではなくてひどく落ち込んでいたが、ゆっくり休んで体力を回復することができた。ポニーも元気を取り戻した。三日目になると、わしは残りわずかな缶詰をポニーの背に乗せて、人気のない土地を歩きだした。死体はあちこちに散らばっていたが、生きている人間は人っ子一人いなかった。しかし、食べ物は豊富にあった。当時の土地は今とまったく違っていた。木や茂みは全部切り払われ、土地は耕されて畑になっていたんじゃ。何百万もの人間の腹を満たすための食料が育ち、熟れて、腐っていた。畑と果樹園で、わしは野菜や果物、ベリーなどを取った。人気のない農家からは卵を集め、ニワトリをつかまえた。納屋ではよく缶詰も見つかった。

 ひとつ、妙なことが全部の家畜に起きはじめていた。どの動物も野生化して、互いを食いものにしていたんじゃ。 最初にやられたのはニワトリとアヒルで、野生に帰ったのはブタ、その次はネコだった。一方、イヌは環境の変化に順応するのにずいぶん時間がかかった。中には 人間の死骸を食らったからだろう、緋色病にかかるものもあった。イヌどもはさかんに吠えたり遠吠えをしたりして、昼間はわしから離れたところで身をひそめていた。ところが時間がたつにつれて、イヌの行動が変化し始めた。最初やつらは互いに距離をおいてお互いを警戒し、こぜりあいもよく起こした。それが次第に仲間を作り、群れをなして走りまわるようになったんじゃ。イヌはもともと、人間に飼われるようになるずっと前から社会的動物だったからな。緋色病が起きる前の世界では、それはたくさんの種類のイヌがいた。ツルツルのやフサフサのや、 ごく小型のもあった。あんまり小さいので、マウンテンライオンほどもある大型犬ならペロリと軽く一口で平らげられそうなやつだ。だが、小型のや体が弱いのは、すぐ強いイヌにやられてしまった。また、ごく大きいのも野生に適応できずに死に絶えた。その結果どうなったかというと、たくさんの種類のイヌが姿を消して、今いる中型でオオカミに似た種類だけが増え、今や群れをなして走り回っているというわけさ。

「でもネコは群れないぜ、おじい」フーフーが口をはさんだ。
「ネコはもともと社会性がないからな。ある一九世紀の作家が言ったように、『猫はひとりで歩く』もんだ(Rudyard Kipling 作 “Just So Stories'” に出てくる The cat that walked by himself )。人間に手なずけられるずっと前から、そして何千年も前に人間に飼われるようになってからも、ネコはひとりで歩いとった。しかし今ではみな、自然に帰っていったよ」

 馬も野生に戻った。馬といえばさまざまな純血種が飼われていたもんだが、それもみな、今見かける小型のマスタングに退化してしまった。牛も野生化したし、ハトも羊もそうじゃ。ニワトリも生き残ったが、今のニワトリは当時わしらが食べていたのとは別ものだ。

 さて、本題に戻ろう。わしは人っ子一人いない土地を旅した。時間がたつにつれて、わしはどうにも人恋しくてたまらなくなった。しかし行けども行けども人間はおらず、寂しさはつのるばかりだった。リバモア・バレーを過ぎ、サンホアキンの巨大な谷との間にある山を越えた。おまえたちはサンホアキン・バレーに行ったことはないが、とても大きな谷で、野生馬の生息地じゃ。何千、いや、何万頭もの馬が住んでいる。わしは30年後にまた訪ねたから知っているぞ。おまえたちは海沿いのこのあたりの谷にもたくさん馬がいると思っているかもしれんが、サンホアキンのに比べたらここら辺の群れなんぞ可愛いもんだ。一方、牛は奇妙なことに野生に帰ったあと、低い山のほうに移っていった。そちらのほうが身を守りやすかったのだろうな。

 荒くれや ごろつきの連中は、田舎ではそれほどいなかったのだろう。そのあたりの村や集落では火事の被害は少なかった。だが疫病による死者はゴロゴロしていたので、わしはあまり寄り道せずに通り過ぎた。ラスロップの近くで、飼い主を失ったばかりで人を恋しがっているコリーのつがいを見つけ、わしも淋しさをまぎらわすために連れて行くことにした。コリーはその後わしと何年も一緒だった。おまえたちのイヌもあのコリーの子孫だ。しかし、60年の間にコリーの純血種は失われてしまった。今いるのはイヌというより獣に近く、いわば飼いならしたオオカミのようなものだからな。

 ここでヘアリップは立ち上がってヤギの安全を確かめた。それから傾きはじめている太陽の位置に目をやると、老人の冗長な話はもうあきあきだというそぶりを見せた。エドウィンに急ぐよう促されて、おじいは話を続けた。

 あともう少しじゃ。 わしはイヌ二匹とポニーを連れ、なんとか捕まえた馬に乗って、サンホアキンを抜け、 シエラ山脈にあるヨセミテという素晴らしい谷にたどりついた。そこの壮麗なホテルには、とほうもない量の缶詰があった。草は青々と茂り、捕まえられる小動物がたくさんいた。谷川はマスが豊富だった。わしはそこでたった一人、三年の年月を過ごした。文明を享受した人間でないと、あの孤独の辛さはわからんだろう。三年たった時、もう耐えきれないと思った。気が狂いそうだった。 わしもイヌと同じく社会的な動物で、仲間が必要だったんじゃ。自分が助かったんだから、ほかにも疫病にかからなかった者がいるに違いないとわしは考えた。それにもう三年もたったことだから、病原菌はもう絶滅し、ほかの土地も安全になっていることだろう、とな。

 わしは馬とイヌとポニーを連れて出発した。サンホアキン・バレーを渡り、その先の山を越えて、もう一度リバモア・バレーに降りていった。三年間で起きた変化は驚くべきものがあった。 見わたすかぎり耕されていた広大な土地が、見る影もなく荒れ果て、人が丹精した田畑に、雑草が一面にはびこっていたんじゃ。麦や野菜や果樹園の果物は、常に人が手を入れ、世話をしていたから、繊細でやわだった。逆に雑草や藪は、人間がやっきになって排除しようとしていたので、強くて抵抗力があったんだな。その結果、手入れをするものがいなくなったとたん、野生の植生が勢いよく茂り、ほぼすべての栽培種に取って代わってしまった。コヨーテの数も増え、このときわしはオオカミにも初めて出会った。それまで住んでいた山奥から、二、三匹、あるいは小さな群れをなしてそろそろと下りてきていたのだ。

 そしてとうとう、昔栄えていたオークランドの近くにあるテメスカル湖にたどりついた時、わしは初めて人間に会った。子どもたちよ、馬にまたがって丘を湖に向かって下りながら木の間から立ち上る焚火の煙を目にしたときの気持ちを、一体どうやったら分かってもらえるだろうか。心臓が止まるかと思ったよ。頭がおかしくなりそうだった。それから赤ん坊ーー人の赤ん坊の声がした。次にイヌが吠え、わしのコリーたちが応えた。

 わしはてっきり、自分が地球最後の生き残りだと思っておったんじゃ。それなのに、ほかにも助かった者がいるとはーー水辺に人煙が上がり、赤ん坊の声がするとは! 
 わしの目の前、百メートルもしないところに、大柄な男が立っていた。男は湖に突き出した岩に立って釣りをしていた。わしは感極まっていた。馬を止めて話をしようとしたが、声が出ない。仕方なく手を振った。男はわしを見たようだったが、手は振り返さなかった。わしはサドルの上で腕に顔を伏せた。幻かもしれない。もう一度頭を上げるのが恐ろしかった。目を上げたら、もう男はおらんかもしれん。あまりにも甘美な幻だったから、わしはそれが一瞬でも長く続くようにと願った。見なければ、男がいなくなることもないからな。

 わしはコリーがうなり声を上げるまでそうしとった。それから男の声がした。なんと言ったと思う? 教えてやろう。
「おめえ、一体どこから来やがった?」

 一言一句たがわん、これがその男の言った言葉だ。ヘア・リップ、おまえのもう一人のじいさんが57年前、テメスカル湖の湖畔でわしと出会ったときにそう言ったんじゃ。あの声は、一生忘れられん。おそるおそる目を開けると、じいさんはまだそこにいた。背が高くて日焼けしている、毛深い男だった。えらが張っていて、眉はつりあがり、眼光が鋭い。どうやって馬から降りたかは覚えていない。次の瞬間、わしは両手でじいさんの手を握りしめて泣いていた。抱きしめたいところだったが、じいさんは心が狭くて疑り深い性格だったから、わしからすかさず身を引いたんじゃ。それでも、わしはじいさんの手を取って涙にくれたよ。

 おじいの声はかすれ、当時の記憶を思い起こすにつれてふるえた。はらはらと涙が落ちると、少年たちは面白がって笑った。
 そうさ、泣いたとも。それにやつのことを思い切り抱きしめたかった。あのショーファーは野蛮人、骨の髄からの野蛮人で、わしが知っているなかで一番忌むべき男だったがな。名前はーーなぜかどうしても名前が思い出せん。ずっとショーファーとだけ呼ばれていたから。もともとやつの仕事だったが、それが呼び名になったんじゃ。それが、あいつの始めたショーファー族の由来じゃ。 

 残忍で、正義感というものをこれぽっちも持ち合わせない男だった。なぜ病原菌があれを避けて行ったのか、まったくわけがわからん。 昔は 形而上的な絶対的正義というものが信じられていたが、どうやらこの宇宙には正義などないらしい。一体なぜあいつが生き延びたんだ? 道徳心のかけらもない、邪悪な怪物。自然のキャンバスに落ちた醜い染み、残酷で無慈悲でけだもののような卑劣漢。やつが話すことといえば自動車や機械、ガソリンやガレージのことばかり。それに、疫病の前、いかに卑怯な手段を使って自分の雇い主をだまし、金を巻き上げてきたかという話になると、ことのほか嬉しそうな顔をしよった。しかし、やつは生き残った。やつよりずっと善良な何億、いや、何十億もの人間が死んでいったというのにな。

 わしはやつのキャンプについて行き、そこで ショーファー族のレディー 、ヴェスタ様に会った。目もくらむような美貌でーー無残な落ちぶれようだった。ヴェスタ ・ヴァン=ワーデン、あのジョン・ ヴァン=ワーデンの若妻が、ぼろをまとい、 焚火の上にかがんで煮炊きをしていたんじゃ。 手は下働きのせいでガサガサに荒れ、傷だらけで、タコができていた。世界一富貴な家系に生まれた、あのヴェスタ様がな。 夫君のジョン・ ヴァン=ワーデンは18億ドルもの 総資産を誇る富豪委員会の会長で、アメリカを率いていた人物だ。国際統制委員会の委員も務めていたから、世界を支配していた七人の一人でもあった。 ヴェスタ様自身も、由緒ある家柄ということでは引けをとらん。父君のフィリップ・サクソンも、亡くなるまで富豪委員会で会長をしておられたほどの人物じゃ。会長職は世襲制に移行されつつあったから、サクソン氏に男子があったら、その人が父上の跡をついでいたことだろう。しかしお子は一人きりで、それが長年の繁栄の末、洗練を極めた文明に咲き誇った大輪の華、ヴェスタ様だった。

 サクソン氏がヴァン=ワーデンを後継者に指名したのは、ヴェスタ様との婚約が調ってからのことだった。きっと 政略結婚だったんだろうよ。 なにもヴェスタ様は、何人もの詩人が謳いあげたようなもの狂おしい情熱をもって夫君を愛したわけではなかろう。富豪委員会に取って代わられる前、各国の王族同士がさかんに結んでいたような婚姻関係だったと思う。

 そのヴェスタ様がじゃ、煤で真っ黒になった鍋でフィッシュ・チャウダーを煮ておられたんだ。目を刺す焚火の煙にいぶされ、あの麗しい瞳を血走らせながらな。どうにもおいたわしいことだった。わしとショーファーがそうだったように、彼女もまた百万人に一人の生き残りだった。サンフランシスコ湾を望むアラメダ・ヒルズの一等地に、ヴァン=ワーデンは千エーカーもの庭園に囲まれた広大な夏の別荘を建てていた。疫病が発生したとき、彼はヴェスタ様をこの屋敷に避難させた。庭園の周辺は武装した護衛がパトロールし、敷地に運び込まれるものは食料はおろか郵便にいたるまですべて燻蒸消毒された。それでも病原菌は忍び寄り、まず護衛が、次に大勢雇われていた使用人のすべて犠牲になったーー少なくとも、よそに逃げてそこで死んだもの以外全員がな。遺体安置所同然となった邸宅で、ヴェスタ様がとうとう最後の生き残りとなってしまったわけだ。

 ショーファーは、逃げ出した使用人の一人だった。二か月後に戻ってみると、 ヴェスタ様は死者が出ていなかった離れに一人で暮らしておられた。そこでやつはけだものの本性をむき出しにしたから、ヴェスタ様は恐怖におののき、裏の林に隠れた。そうして暗くなると、裸足で山の中に逃げ込んだ。たおやかな体と柔らかい足は、石を投げられてアザができたこともなく、茨に傷ついたこともなかったというのに。だがやつが追ってきて、夜のうちにすぐ捕まってしまった。そしてヴェスタ様に手をあげた。わかるか? あのいかつい拳で殴りつけて、 ヴェスタ様を奴隷にしてしまったんじゃ。以来、柴を拾い集めて火をおこしたり、煮炊きををしたりといった、野営生活で必要な労働は一切がレディーの仕事になってしまった。力仕事など一度もしたことのない奥方だったというのにな。ショーファーは恥知らずの悪党なもんだから、ヴェスタ様をそうしてこき使いながら、自分はごろごろして見ているだけだった。自分では縦のものを横にもしないーー時おり狩をしたり、釣りに行ったりする以外は。

「じいさん、やるな」ヘアリップがほかの二人にこっそり言った。
「おれ、じいさんのこと覚えてるよ。さすがショーファーだ。でもやっぱり、自分の思い通りにならないと大変だったな。 おやじがじいさんの娘と結婚したろ。で、おやじのこともよく殴っていたよ。ほんと、こわいじじいだった。おれたちもよくお仕置きされた。もうすぐ死ぬってときにも、いつもそばに置いていた長い棒があるだろ、それをいきなり振り回してガツンとやるもんだから、頭がつぶれたぜ」
ヘアリップはそのとき受けた傷を思い出しながら、自分の小さな頭をなでた。少年たちはショーファー族創設者の妻、ヴェスタの思い出に恍惚とふける老人にまた注意を向けた。

 あの身の上のいたましさは、おまえたちには想像もつかんだろう。ショーファーはただの使用人だった。いいか、主人に仕える身だ。ヴェスタ様のような方の前ではおそれ多く頭を下げていたもんじゃ。一方のヴェスタ様は、生まれも育ちもやんごとなき貴婦人。嫁ぎ先もそれにふさわしい高貴なお方だ。何百万人もの人間の運命を、あの薄桃色の手で握っておられた。疫病が起きる前の世界では、ショーファーごときがあのような身分の方に触れるのは、とてつもなく汚らわしいことだった。実際わしは、そういう場面を見たことがある。富豪委員会のメンバーの妻で、ゴールドウィン夫人という人がおった。夫人があるとき自家用飛行船に乗り込もうとして、タラップで日傘を落とした。使用人の一人がそれを拾って、あろうことか夫人にそれを手渡しするという過ちを犯したんじゃ。アメリカ全土で最も身分の高い夫人の一人にな。夫人は、使用人がまるでらいにかかっているようにひるみ、秘書にそれを受け取るよう命じた。さらにその無礼者の名前を調べて、ただちに首にするよう指示を出したそうだ。ヴェスタ・ヴァン=ワーデンもゴールドウィン夫人と同じ上流の身だ。それをショーファーのやつが凌辱して、奴隷の身分に貶めてしまったんじゃ。

 ビルーーそう、ショーファーの名はビルだった。卑しい、けだもの同然の男。文明の恩恵を受けた者だけに許される、高尚な思考や礼儀作法などはつゆほども持ち合わせておらん。 それがあの優美なヴェスタ・ヴァン=ワーデンをほしいままにするとは、この世に正義などまったくない証拠じゃ。この由々しさ、おまえたちには絶対にわかるまい。なにしろおまえたちも小さな野蛮人で、野生の暮らししか知らんのだからなあ。一体なぜ、わしがヴェスタ様と一緒になれなかったんじゃ? わしは折り目正しい教養人で、一流大学の教授だった。それでもヴェスタ様は雲の上の人だったから、疫病前の世界ではわしなどには一顧だにせんかったろう。

 それがあのショーファーの手に落ちてしまったのだから、この世の生き地獄とはまさにあのことじゃ。ヴェスタ様の知己を得、目を合わせ、話を交わし、その手に触れーーそうして最後には恋に落ち、ヴェスタ様もわしを憎からず思っていると感じるようなことは、人類が滅びでもしなければあり得なかった。だが、ショーファー以外の男といえばわししかおらんかったのだから、あのヴェスタ様がわしを愛するようになったと信じてもばちは当たらんだろう。何十億という人間の命を奪っておいて、なぜ緋色病はよりによってあのショーファーを殺さなかったんじゃ?

 ショーファーが釣りに行って留守だった時、レディーはわしにやつを殺してほしいと懇願した。目に涙をためて、頼むから殺してと口説くのじゃ。しかしやつは頑強で狂暴な男だった。わしはやつが怖かった。そのあとわしはやつに話をした。馬とボニーとイヌをやる代わりにヴェスバ様を譲ってほしいと言ったんだ。やつはニタリとして頭をふったよ。わしのことをなめきっておった。以前やつは使用人で、わしやヴェスタ様のような主人に踏みつけにされていた。それが今ではアメリカ随一の貴婦人を下女としてこきつかい、料理を作らせ、自分の子どもたちの世話をさせている。

「緋色病の前、お前たちはいい思いをしていた」やつは言った。「それが今ではおれの天下だ。毎日楽しくてたまらないぜ。こんな生活、どんなお宝と引き換えてやると言われてもごめんだ」ーーというようなことを返されたわけだが、やつの言い方はもっと口汚なかった。なにしろ野卑で下品な男だったから、おぞましい呪いの言葉を吐き続けていたよ。

 やつはさらに、自分の女に色目を使おうものなら、わしの首をへし折ってヴェスタ様もぶちのめすと脅した。一体わしはどうすれば良かったんじゃ? わしは怖かった。やつはごろつきだった。あのキャンプにたどりついた日の夜、わしはヴェスタ様と、わしらの失った世界について語り合った。芸術や本や詩の話題に花を咲かせた。ショーファーはそれを聞いて、侮蔑の表情を浮かべていた。やつにはわしらの会話はこれっぽっちも理解できなかったから、退屈して腹を立てていた。そうしてしまいにこう言ったんだ。

「そしてここにおられるのがヴェスタ・ヴァン=ワーデン、 大富豪ヴァン=ワーデンのもと奥様ーーお高くとまった美人で、今じゃおれの女房というわけだ。スミス教授よ、時代は変わった。もう昔の時代は終わりだ。ほれ、ヴェスタ。モカシンを脱がせろ。早くしな。スミス教授に、どれだけおまえをうまく調教したかお見せするんだから」

 ヴェスタ様は歯を食いしばり、抵抗の炎がその顔にちらついた。するとやつは節くれだった拳を振り上げた。やつに立てついても、これっぽっちも勝ち目がないことはわかっていた。わしは恐ろしさで胸が悪くなった。そこで立ち上がって、ヴェスタ様がはずかしめられるところを見なくてすむようにその場を離れようとした。しかしショーファーはあざけり笑って、そこにいてしっかり見ないと殴ると脅した。そこでわしはテメスカル湖のほとりの焚火の前で、ヴェスタ様、ヴェスタ・ヴァン=ワーデン様がひざまずき、にやついた毛深いサルのような野蛮人のモカシンを脱がせるところを目の当たりにしたのじゃ。ああ、おまれたちには分からん。前の世界を知らないおまえたちに何を言っても無駄じゃ。

「端綱(はづな)はつけた、くつわも慣れた」ヴェスタ様に忌まわしい用をさせながら、ショーファーは卑しく笑った。「かなりのじゃじゃ馬だが、アゴに一発お見舞いしてやれば子羊のようにすっかりおとなしくなる」

 このあとで、やつはこうも言った。
「おれらは一からやり直して子孫を増やしていかなくちゃならん。教授、あんたには女がいないというハンデがある。エデンの園の時代に逆戻りというわけだ。だがおれは気取っちゃいない。教授、いいか」やつは一歳にもならないわが子を指さした。「これをあんたにくれてやる。育つまで待たないとならないが、どうだ、うまい話じゃないか。おれたちはもう平等で、この池ではおれが一番大きいカエルだ。しかしおれはお高くとまったりしない。スミス教授、おれとヴェスタ・ヴァン=ワーデンの娘をあんたの嫁にやるというんだ。これを聞いたらヴァン=ワーデンがどんなツラをするか、見られなくてまったく残念だぜ」

第五章 了 つづく


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