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緋色病 第一章


 好きなご当地作家のひとり、ジャック・ロンドンの短編を訳してみる。

The Scarlet Plague, Jack London, ISBN 9781675900635 (1912年作)

 舞台は2072年、人類を絶滅寸前においこんだ伝染病の発生から60年経ったカリフォルニア。パンデミックの生き残りである老人が語る、恐るべき災禍の記憶。希代のストーリーテラー、ロンドンの冷徹な筆が冴える、ポスト・アポカリプス小説です。『赤死病』という題名で邦訳が出ていますが、内容から考えて『緋色病』という新しい名前にしました。

(著者の死後70年が経過しているため、原作の著作権は失効しています。翻訳文の著作権は訳者に属します。)

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 小道は、線路があった盛り土の上に続いていた。鉄道は何十年も通っていない。両側の森は盛り土にも生い茂り、木や藪が緑の波になって広がっている。 大人一人がやっと通れるくらいの幅で、どちらかというとけもの道に近い。線路や枕木がまだ残っていることを示しているのは、ときおり下生えからのぞくサビた鉄片だけだ。あるところでは、25センチほどの若木が線路のつなぎ目を突き破って伸び、線路の端が持ち上がってはっきり見えていた。枕木は釘でうちつけられた線路といっしょにせり上がり、さらに台とのすき間に長年小石や朽ちた葉がつまって、ぼろぼろに腐ったまま妙な角度で反り返っていた。線路は古かったが、それが単軌鉄道であることは明らかだった。

 老人と男の子が小道を歩いている。 二人の歩みは遅い。 老人が高齢で麻痺が少しあるために動きがぎこちなく、杖にすがっているからだ。ヤギの皮でできた粗末なふちなし帽が、太陽から老人の頭を守っている。帽子の下からは、汚れて染みのついた白髪がひょろひょろとはみ出している。大きな葉で器用にこしらえた日よけが、彼の目を覆っている。老人は葉の下から小道を進む自分の足先を見つめていた。ひげは真っ白だが、髪と同じように 野外生活で風雨と日光にあたってあちこちが汚れ、こんがらがった大きなかたまりになって腰の近くまで垂れている。着ているのは肩と胸をおおうヤギの汚い皮が一枚だけだ。 腕や脚がやせこけてしわだらけのところを見ると、よほどの年なのだろう。 肌は長い間厳しい自然にさらされてきたらしく、 日に焼けてケガの跡やひっかき傷が目立つ。 

 はずむ体を抑えながら老人に合わせてゆっくり先を歩いていた男の子も、身にまとっているのはふちがギザギザしたクマの皮一枚きりで、皮の真ん中に開けた穴から頭を出している。歳はまず12歳を超えていないだろう。片方の耳に、切り取ったばかりのブタの尻尾を小粋にはさんでいる。手には中くらいの弓矢を握っている。

 背中には矢筒いっぱいの矢をしょっていた。首から皮ひもでぶら下げたさやからは、狩用ナイフのつぶれた柄がつきだしている。少年は真っ黒に日焼けして、歩みは猫のようにひそやかだ。日に焼けた肌と鮮やかなコントラストをなしているのは深い青色の目で、二つのキリのように鋭く光っている。また、それが習慣になっているのだろう、目はあらゆるものを貫くようにまわりを見まわしていた。 彼は前に進みながら周囲の匂いを敏感にかぎとり、広がってひくつく鼻孔は、外の世界に満ちている無数のメッセージを脳に送っていた。聴覚も鋭く、耳は常に周囲の物音を聞きつけられるように研ぎ澄まされている。静かな場所でも、無意識にごくかすかなもの音を耳にし、違いを聞き分け、即座に分類しているのだーーたとえば葉をそよがせる風や、ハチやブヨの羽音や、じっとしている時にだけ響いてくる遠くの海のとどろきや、 足元でツチネズミが頬いっぱいの土を巣穴の入り口にかぶせる音などを。

 突然、少年は緊張で体を硬くした。聴覚、視覚、嗅覚が同時に警告を発している。彼は手を後ろにのばして老人に触れた。二人は立ちつくした。二人の先のほう、盛り土のわきで枝の折れる音がし、ガサガサと揺れる茂みに少年の目は釘付けになった。大きなハイイログマが急に飛び出したのだ。クマは人間を見てピタッと止まった。警戒し、低いうなり声をあげる。少年はゆっくりと弓に矢をつがえると、弓をじりじりと引いた。クマから一度も目を離さない。 老人は少年とおなじように立ちつくし、緑の葉の下からこの危機を見つめていた。双方のにらみ合いが数秒続いたのち、クマはしびれを切らして威嚇を始めた。少年は老人に向かって頭を動かし、道からどいて盛り土から降りるよううながす。弓を引き絞ったまま老人と一緒にあとずさり、 低い位置からけものと対峙し続けた。盛り土の反対側の茂みが激しくゆれて、クマが姿を消した。少年は口元をゆるめながら老人を連れて道に戻った。

「でかいやつだったね、おじい」少年は明るく笑った。老人は頭をふった。

「やつら、日に日に数が増えているわい」老人はしゃがれた黄色い声で不平をもらした。「まさか、クリフ・ハウスに向かう途中で身の危険を感じるような目に合う日が来るとはな。わしが子供のころはな、エドウィン、晴れた日には何万人もの人たちがサンフランシスコからここまで行楽に来たものだ。 赤ん坊連れもいたぞ。当時はクマなんていなかった。冗談じゃない。クマは檻に入れられているのをお金を払って見に行くものだった。それほど珍しいものだった」

「お金ってなに? おじい」老人が答える前に少年ははっとして手をクマ皮の下の小袋につっこみ、 汚れて傷だらけの一ドル硬貨を誇らしげに出してみせた。老人は目を光らせて硬貨を顔の前に近づけた。

「ーーよく見えん。日付がわかるか、エドウィン」

 少年は面白そうに笑った。「しょうがねえな、おじい。いつまでもこんなちっぽけな印に意味があるって信じてるんだから」老人はまたかというふうに悲痛な表情を浮かべ、硬貨をもう一度しげしげと見た。

「2012年!」かん高く叫ぶと、カラカラと奇怪な笑い声をあげた。

「 富豪委員会がモーガン五世をアメリカの大統領に任命した年じゃ。緋色病が起きたのが2013年だから、鋳造された最後の硬貨だろう。なんてこった!考えてもみろ。たった60年前のことなのに、わしが当時の唯一の生き残りとはーーこれをどこで見つけた、エドウィン?」 少年は頭の弱い者のつぶやきに興味本位で耳を傾けるように老人の話に付き合っていたが、質問にはすかさず答えた。

「フーフーからもらった。前の春、サンノゼの近くでヤギを放していたとき見つけたんだって。それがお金っていうんでしょ。それよりおじい、腹へってない?」 

 ひどく年老いた男は杖をぎゅっと握ると、老いぼれた目を貪欲そうにぎらつかせながら、やおら歩きだした。

「ヘアリップ(「みつくち」の意)がカニを見つけているといいのだが・・・できれば二匹。」老人はつぶやいた。「カニはうまい。じつにうまい。歯がなくなった老いぼれにとって、祖父思いの孫息子たちが取ってくれるカニは特にな。わしが子どものころは・・・」 

 しかし、 あるものを見つけたエドウィンは足をピタリと止め、弓をキリリと引いていた。彼が立っていたのは盛り土の裂け目のふちだった。大昔の排水溝が押し流されて、裂け目の間の土にあふれた水が流れを作っていた。裂け目の向こう側には線路の端がむき出しになって張り出していた。まわりに生い茂ったツタの間から、サビた表面がところどころ見えていた。その向こうの茂みに、 おびえたウサギが震えている。ウサギとの間は優に15メートルはあったが、少年の放った矢はみごとに命中した。射貫かれたウサギは突然襲われた恐怖と激痛に鋭い鳴き声をあげ、痛みをこらえながら藪の中によろよろと逃げこんだ。少年も褐色の肌に茶色の毛皮をまとった体を翻し、急こう配を飛び降りて、裂け目の反対側に駆け上る。しなやかな筋肉は鋼のバネのようにはずみ、優雅な無駄のない動きで獲物のあとを追った。30メートル先のこんもりとした藪の中から手負いの動物をつかみ出すと、近くの木の幹に頭を打ちつけてとどめを刺してから老人に渡した。

「ウサギもいい。悪くない」老人はふるえる声で言った。「しかしわしにとってはやはり、カニが一番のごちそうじゃ。わしが子どものころは・・・」

「おじいはどうしてそんなわけわかんないことをだらだら話すんだ?」エドウィンはいらついて老人の長話を乱暴にさえぎった。少年が実際にこういう言い方をしたわけではない。彼が口にしたのはもっと鋭く粗暴で、短い言い回しだった。彼の言葉使いは、ほかの者の乱れた言葉に同化している老人の英語にどこか似ていた。エドウィンは続けた。

「いったいなんだっておじいは、カニのことを『イチバンノゴチソー』なんて言うんだ? カニはカニだろ? ほかの人がそんな変なふうにカニを呼ぶの、聞いたことねえよ」

 老人はため息をついて、何も答えなかった。二人はだまって歩き続けた。森を抜けて、海の前に広がる砂丘に出ると波の音が急に高くなった。ヤギが何頭か砂の山で草を食んでいる。けものの皮を着た少年が、コリーの面影をわずかに残す、オオカミに似た犬と一緒にヤギを見張っていた。潮騒に交じって、海岸から90メートルほど沖のごつごつした岩場から、低い鳴き声や吠える声がひっきりなしに聞こえてくる。巨大なアシカが岩に横たわって、日向ぼっこをしたりケンカをしたりしているのだ。岩場正面の岸からは煙が上がっていて、もう一人粗野ななりの少年が焚火を守っている。かたわらには、ヤギの番をしているのとよく似た、オオカミのような犬が数頭座り込んでいた。老人は歩を早め、火に近づくと鼻をしきりにひくひくさせた。

「ムール貝!」老人はうっとりとつぶやいた。「ムール貝だな! フーフー 、しかもカニもあるんじゃろう? 何とまあ、みんなおじいによく尽くしてくれることよ!」エドウィンと同じ年ごろのフーフーがにやっと笑った。「好きなだけ食べな、おじい。四つあるから」

 老人が自由のきかない体でカニにありつこうとするさまは、見るも哀れだった。こわばった手足をせかせかと動かして砂の上に座りこむと、大きなムール貝を炭の中からつつき出す。貝はあつあつで口が開き、オレンジ色の身は完全に火が通っていた。大急ぎでふるえる親指と人差し指で身をつまむと、口に運ぶ。しかしあまりにも熱かったので、老人は慌ててそれを吐き出した。熱さのあまりむせると、涙がほほを伝った。少年たちは根っからの野生児で、未開人特有の残酷なユーモアのセンスしか持ち合わせていなかった。老人の醜態は腹がよじれるほどおかしく、彼らは大声で笑った。フーフーは飛び跳ねて踊り、エドウィンは大喜びで砂の上を転げまわった。ヤギの番をしていた少年も、みんなの楽しそうな様子を見てかけつけた。

「冷ましておくれ、エドウィン、頼むから」老人は流れる涙をぬぐおうともせず、情けなさそうに懇願した。「それからカニもな、エドウィン。おじいの好物がカニだと知っとるだろう」 

 ムール貝の口がいっせいに開き、湯気がふき出して炭が盛大にじゅうじゅうと音を立てた。7センチから15センチもある大きな貝だ。少年たちは棒で貝をかき出すと、大きな流木の上に乗せて冷ました。「わしが子供のころは、お年寄りのことを笑ったりはしなかった。高齢者は敬うものだったぞ」

 少年たちは聞いていなかったが、老人は文句とも叱責ともはっきりしない口調でぶつぶつ話し続けた。今度はもっと注意して食べたので、やけどをせずにすんだ。みんなが手づかみで食べ始め、くちゃくちゃと大きな音を立てて、おおいに舌を鳴らした。ところがヘアリップと呼ばれた三人目の少年が、こっそり砂をひとつまみ、老人が口に運んでいたムール貝に乗せた。老人の歯茎やほほの内側に砂が食い込んだのを見ると、子供たちはまたワッとはやした。いたずらをされたとは気づかない老人は懸命に砂を吐き出した。じき老人が可哀そうになったエドウィンは、ヒョウタンに入った水を差しだして口をゆすがせた。

「フーフー、カニはどこだ?」エドウィンは強い調子で聞いた。「おじいが楽しみにしてるんだよ」

 大きなカニを受け取ると、おじいの目は再び貪欲そうにギラギラと光った。足は全部そろっているが、身はそっくりほじられている。老人はカニを口にできる喜びをつぶやきながらふるえる手で足を折ったが、中身は空っぽだった。

「なんだこのカニは? フーフー」老人は嘆いた。「身はどうした?」

「からかったんだよ。カニはないんだ。今日はひとつも取れなかった」 

 老いさらばえた男が落胆のあまり大粒の涙をこぼしてほほを濡らすのを見て、 少年たちの喜びは絶頂に達した。するとフーフーが、こっそり空の足を焼いたばかりの身の詰まったものと取りかえてやった。甲羅から外して割った足の中で、焼き立てのカニの白い身が香ばしい湯気をたてる。匂いを嗅ぎつけると、老人は信じられないという面持ちで手元を見た。

 老人の機嫌はたちまち直った。そして洟をすすり上げ、ぶつぶつつぶやいて嬉しさのあまり鼻歌まで歌いながらむしゃぶりついた。いつものことなので、少年たちは無関心だった。

「マヨネーズ!・・・ここにマヨネーズさえあったら! 最後にマヨネーズが作られたのはもう60年も前のことじゃ。二世代もの人間が一度もマヨネーズの匂いをかいだことがないとはなあ。昔はどこのレストランでもカニにマヨネーズを添えたものなのに」 老人は満腹になるとため息をつき、むき出しの足に手をなすりつけて拭くと、海のほうをながめた。腹を満たしたあとはいつもの昔話だ。

「なんてことだ。この海岸は、晴れた日曜日には大勢の人たちでにぎわっていたもんだ。クマに食べられる心配なんぞなかった。崖の上には大きなレストランがあって、メニューはよりどりみどりだった。当時のサンフランシスコの人口は四百万人。それが今では、市どころか郡全体で40人もおらん。沖にはいつも船が何艘も浮かんでいて、ゴールデンゲートを行ったり来たりしていた。空には飛行船や気球などの空飛ぶ機械が飛んでいた。時速二百マイルの空の旅だ。ニューヨーク=サンフランシスコ特急の郵便規約で決められた最低速度だった。名前は忘れてしまったが、 たしかフランス人で、三百マイルをたたき出した者もおった。危険で、並みの人間にはとても無理な飛行だった。が、あの恐るべき疫病さえなければきっとどうにか実用化していただろうよ。わしが子供のころは、最初の飛行機ができた時のことを覚えている人がいたもんだが、今ではわしが 飛行機を見た最後の人間になってしまったーーもう60年前のことじゃ」

 老人は少年たちの無関心をよそにぶつぶつと管をまいた。 彼らは祖父の長話には慣れっこになっていたし、そもそも老人の話はちんぷんかんぷんだった。独り言をつぶやいているときには、老人の英語は文法も言い回しも昔の洗練を取り戻すようだった。しかし孫息子たちと話すときは、彼らの粗暴で単純な言葉遣いと同じレベルに落ちてしまうのだった。

「しかし、当時カニはそんなに手に入らなかったーー乱獲が続いて、希少なごちそうだった。カニ漁が解禁されたのは一か月の間だけだったしな。それが今では一年中取れる。いやはや、このクリフハウスビーチで、年がら年中好きなだけカニが取れるとは!」

 ヤギの群れが突然騒ぎだすと、少年たちはすっくと立ちあがった。 ヤギの番をしていた犬がうなり声を上げ、焚火を囲んでいた数頭の犬も大急ぎで仲間のもとに駆けつけた。ヤギは助けを求めて人間のもとにいっせいに押し寄せた。6頭のほっそりとした灰色の生き物が砂丘をすべるように駆け上り、毛を逆立てた犬に立ち向かう。エドウィンが放った矢は届かない。次はヘアリップが、ダビデがゴリアテとの対決に使ったような飛び道具で石を放った。石は高速でひゅうと風を切り、オオカミの群れの真ん中に落ちた。オオカミたちはユーカリの森の闇にコソコソと逃げていった。

 老人は物思いにふけるようにため息をつき、少年たちは笑いながらまた砂に腰を下ろした。老人はくちくなった腹の上で手を組み、また回想を始めた。「儚い文明はうたかたのように過ぎ去る」ー ー 老人は、あきらかに引用と思われる一節をもごもごと口にした(サンフランシスコで活動した作家、George Sterling の詩 The Testimony of The Suns からの引用)。

「そうとも、うたかたじゃ。 儚いうたかた。この星で人間が築き上げてきたことはただの泡沫に過ぎなかった。人間は使役動物を飼いならし、自分に害をなす動物は絶滅させ、大地から野生の植生を切り払ってしまった。しかしいったん人間が姿を消すと、太古からあった生き物が群れをなして戻り、人間の労苦の成果を押し流してしまった。雑草は田畑を埋め尽くし、肉食獣が家畜に襲いかかった。今ではクリフハウスビーチにオオカミがたむろする始末だ」老人は自分の独白に唖然とした。

「四百万もの人々が行楽に興じたこの場所で、今では野生のオオカミがうろつき、野生に戻ったわしらの子孫が古代の武器を使って、牙のある略奪者から身を守る。考えてもみろ! それもこれもあの緋色病のせいだーー」その言葉がヘアリップの注意をひいた。ヘアリップはエドウィンに聞いた。

「おじいがいつも言ってるヒイロってなんだ?」

「楓の緋色に震えるわが心 行進ラッパが響きわたる時のように」老人は詩の一節を暗唱した(カナダの詩人Bliss Carman 作 A Vagabond Song からの引用)。

「赤のことだよ」エドウィンは答えた。「おまえはショーファー族の子だから知らないんだ。ショーファー族のやつらはなんにも知らない。でもおれは知っている。緋色は赤のことだ」

「赤は赤だろう?」ヘアリップはぶつぶつ言った。「だったらどうしてもったいぶってヒイロなんていうんだ? なあ、おじいはどうしてだれも知らないことをそんなに話すんだ? ヒイロなんていらねえだろ。赤は赤でいいよ。おじいはなんで赤って言わないんだ?」

「赤ではぴたりと来ない」老人は答えた。「緋色病はあくまでも緋色だ。発症すると、一時間以内に顔も体も緋色に染まる。わしが知らんはずなかろう。この目で緋色病にかかった人を大勢見たんだからな。あれは緋色だったーー体全体が緋色に燃え上がる病だ。それ以外の名はない」

「おれは赤でじゅうぶんだ」ヘアリップは聞かん気そうにつぶやいた。

「おやじは赤を赤と言うし、なんでもちゃんとわかってる。おやじはみんなが赤い病気で死んだって言ってるよ」

「おまえの父親は、庶民の出の平凡な男だ」おじいはむきになって答えた。「わしがショーファー族の始まりを知らんとでもいうのか。おまえのじいさんはお抱え運転手で(英語でお抱え運転手はショーファー)、昔は学のない使用人だった。つまり、ほかの人に使われていたということだ。おばあさんは上流の出だったが、子どもたちはおばあさんに似なかった。わしがテメスカル湖で魚を採っていたショーファーに初めて会った時のことを忘れるわけがない」

「ガクってなんだ?」エドウィンは聞いた。

「赤をヒイロって呼ぶことさ」ヘアリップがあざわらい、またおじいを攻撃しはじめた。「おやじがじいちゃんが死ぬ前に聞いた話らしいけど、おじいの奥さんはサンタローザ族で、普通のおばさんだったんだろ? 赤い病気の前は安食堂で働いてたっておやじが言ってたよ。『ヤスショクドー』って、なんのことかわかんないけど。エドウィン、教えてくれよ」

しかしエドウィンも知らないと首を横にふった。

「そうとも。おばあはウェートレスをしていた」おじいは認めた。「しかし、あれは心根のやさしい人だった。それに、おばあの娘がおまえたちの母親だ。疫病のあと、女はほとんどいなくなった。だからわしが妻にできたのは、おまえの父親が言うところの安食堂でウェートレスをしていたおばあだけだ。だがな、自分の祖父母のことをそんなふうに言うものではないぞ」

「おやじは、さいしょのショーファー族の奥さんはレディーだったって言ってたーー」ヘアリップが言った。

「レディーってなんだ?」フーフーが聞いた。

「レディーはショーファー族の女ってことだ」ヘアリップはすかさず答えた。

「最初のショーファー族の人間はビルという名前で、さっきも言った通りしがない労働者だった」老人は根気よく説明した。「しかしビルの妻はレディーの中のレディーだ。緋色病の前、ビルの奥さんはヴァン=ワーデン夫人といった。ヴァン=ワーデンというのは富豪委員会の会長で、アメリカを支配していた12人のうちの一人だ。その資産総額、なんと18億ドルーーエドウィン、お前の袋にあるコインのようなお金のことだ。しかし緋色病のあと、夫人は最初のショーファー人であるビルの妻になった。ビルは夫人を殴っていたもんじゃ。わしはその様子をこの目で見た」

 腹ばいになって両方の足の親指で砂をほじくっていたフーフーが叫び声をあげ、親指の爪と、今自分が掘ったばかりの穴をしげしげと見た。ほかの二人もフーフーと一緒になり、手で砂をせっせと掘ると、三体の骸骨が姿をあらわした。二体は大人で、三体目はかなり大きくなった子どものものだった。老人はよろよろと近づいてきて、少年たちが発見したものを見つめた。

「疫病の犠牲者だな。最後のころは、こうしてあちこちで人が亡くなっていったものだ。伝染を避けてクリフハウスビーチまで避難してきて息絶えたのだろう。この家族ーーエドウィン、なにをしとる?」エドウィンが狩猟ナイフの背を使って、どくろのアゴから歯をへし折っているのに気がついて、老人はうろたえた。

「ひもに通す」エドウィンは答えた。三人はけんめいになっていた。歯を叩いたり打ったりする音があたりに大きく響くなか、おじいのぶつぶつ言う声に気づくものはいなかった。
「おまえらは生粋の野蛮人じゃ。人骨を身に着ける習慣まで始めおった。次の世代はきっと鼻や耳に穴をあけて、骨や貝殻の飾りを通すようになる。そうじゃ、人類はまた血濡られた文明に昇りつめる前に、暗い原始時代の深みに落ちていかなくてはならん。そのうち人間が増えて場所が足りなくなると、殺し合いをはじめる。するとおおかた、相手の頭の皮をはいで戦利品として腰にぶら下げることだろう。エドウィン、三人のうち一番やさしいお前までが汚らしいブタのしっぽを飾りにしよる。そんなもの捨てておしまい、エドウィン」

「じじいの話はほんとでたらめだ」ヘアリップは言った。

 歯が全部取れると、少年たちは公平に分けようとした。彼らは行動も話し方もせかせかとして粗暴で、良い歯の割り当てをめぐって争う彼らの言葉づかいこそがでたらめだった。彼らの言葉は単音節や短い細切れの文章でできており、ほとんど言語の形をなしていない。だが、しっかりした文法のつくりは残っており、高度な文明で使われるきちんとした活用の名残りがところどころで顔を出した。おじいの話でさえ、あまりにも乱れていたため文字にしたら読む者には意味がわからなかったかもしれない。しかし、それは彼が少年たちと話す時だけだ。独白が興に乗ると、しだいに純粋な英語の面影が戻ってきた。文章は長く伸び、リズミカルでなめらかな語り口は、彼がその昔立っていた講壇を彷彿とさせるのだった。

「赤い病気の話をしてくれよ、おじい」歯の山分けが一段落すると、ヘアリップは求めた。

「緋色病だろ」エドウィンが訂正した。

「いつもの変な言葉はなしでさ」ヘアリップが続けた。「ふつうに頼むよ。おじいもサンタローザンじゃないか。ほかのサンタローザンはおじいみたいに話さねえよ」

第一章 了 つづく

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