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緋色病 第二章

緋色病 第二章

 老人の話がいよいよ始まります。この話が書かれた1912年当時、ウイルスはすでに発見されていましたが、老人の回想にウイルスという言葉は出てきません。原文どおり細菌とだけ訳しました。

 ベイエリアでおなじみの地名がたくさん出てきて、現在のコロナ禍で陰るシリコンバレーの繁栄と、物語で描かれている荒廃した未来とが怪しく交差します。

(写真:サンフランシスコシスコのフェリーターミナル)

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 老人は昔の話をせがまれて喜び、咳払いをして話し始めた。

「2,30年ほど前まで、わしの話はみながこぞって聞こうとしたものだ。しかし最近ではだれも興味を示そうとしないーー」

「ほら、まただ!」ヘアリップがいらだって叫んだ。「変な言葉はなしで、ちゃんと話せってば。キョーミってなんだ? 赤ん坊みたいなでたらめ言うな」

「ほっとけ」エドウィンが口をはさむ。「でないとおじい、怒ってだまってしまうよ。変なところは飛ばしても、だいたいはわかる」

「おじい、気にすんなよ」自分が孫から受けている無情な仕打ちや、高度な文明から原始の状態に転落した人間が示すようになった残酷さについて老人がだらだら不平をもらしたところで、フーフーがとりなした。話が始まった。

「当時の世界にはたくさん人がおった。サンフランシスコだけで四百万人ーー」

「ヒャクマンってなに?」エドウィンがさえぎる。おじいはエドウィンを優しく見た。

「おまえたちは十以上数えられんのだったな。では教えてやるから両手をお出し。手の指が全部で十本あるだろう。よし。さて、砂を一粒取ってーーフーフー、おまえが持っておくれ」老人は砂を少年の手のひらに乗せると続けた。

「この粒一つが、エドウィンの指十本とする。そこでもう一粒足す。これでもう十本。エドウィンの指の数だけ、もう一粒、もう一粒、というふうに足していく。それが百という数じゃ。いいか、 百という言葉をを覚えてな。さて、次はヘアリップの手にこの小石を乗せる。小石一つが砂十粒、または指十本が十、つまり指百本だ。小石が十個で指が千本という意味になる。今度はムール貝の殻を小石十個分とする。つまり砂十粒、あるいは指が千本・・・」

 老人は、根気強く何度も繰り返して、少年たちに数字のおおよその概念を教えようとした。数が大きくなるにつれて、彼は少年たちに異なる印を持たせた。さらに桁が増えると、今度は数の印を流木の上に並べた。そのうち使える印がなくなって、百万の単位にはどくろから取った歯を、十億にはカニの甲羅を用いた。そのうちに少年たちが退屈し始めたところで説明をやめた。「サンフランシスコには四百万人の住人がいたーーこの歯、四本分だ」

 子供たちの目は想像を絶する大きな数を理解しようと、最初歯、それから自分たちの両手、小石、砂粒とエドウィンの手を順に見た。それから今度は、数の単位が大きくなる順番にそれぞれの印に目をやった。

「そんなにたくさんいたのか、おじい」エドウィンが思い切って声をあげた。

「この浜の砂のように、海岸の砂のようにたくさんだ。砂の一粒ひと粒が男や女や子供と思えばいい。そうだエドウィン、それだけの人間がサンフランシスコに住んでいた。その人たちがみんな一度はこの海岸にやってきたものだ。砂粒より多くの人ーーこれよりうんと多くの人たちが。サンフランシスコは、それは風光明媚な街じゃった。湾の向こう、去年わしらがキャンプしたあたりには、さらに多くの人が住んでおった。ポイント・リッチモンドの平地や山から、ずっとサンリアンドロのあたりまでな。人口七百万人ーー歯が七本ーーそう、それが700万。全部で人口七百万人の大都市圏だ」

 少年たちの目はまた、エドウィンの指と流木の上の歯の間を行ったり来たりした。

「世界は大勢の人であふれていた。2010年の統計では、世界の人口は80億人。そう、カニの甲羅八個分が80億人だ 。今とまるきり違う。当時の人類は、食料を手に入れる方法を今よりずっと知っていた。食べ物が豊富にあったので、人がどんどん増えた。1800年当時、ヨーロッパだけで1億7千万人の人がいた。それが百年後ーー小石一つ分だ、フーフーーー百年後の1900年に、ヨーロッパの人口は5億に増えていた。つまり歯が小石五つ分あるということだ、 フーフー。当時は食べ物を得るのがいかに簡単で、どれだけ人が増えたかがこれでわかるだろう。そして2000年、ヨーロッパの人口は15億に達していた。世界のほかの場所でも同じこと。緋色病が始まる前の地球にはカニの甲羅八個分、すなわち80億人もの人がいた」

「疫病が始まったとき、わしは27歳の若者だった。そして、サンフランシスコの湾をはさんだ反対側、バークレーという町に住んでいた。エドウィン、いつかコントラコスタから山を下りてきたところに、石でできた大きな家がたくさん並んでいたのを覚えとるだろう? わしはあの家に住んで、英文学の教授をしていた」

 話のほとんどは少年たちの理解を超えていたが、彼らは老人の回想になんとかついて行こうと頭をしぼった。「石の家はなんだったの?」ヘアリップがたずねた。

「父さんに泳ぎを教わったときのことを覚えているか?」少年はうなずいた。「 あの家はカリフォルニア州立大学(UCバークレー、名門州立大学)といってな、そこでわしらは、若い男女にどうやって物事を考えるかを教えていたんだ。わしがさっき、おまえたちに昔どれだけの人が生きていたかを、砂と小石とカニの殻を使って教えたようにな。教えることはうんとたくさんあった。わしらが教えていた若者は、学生と呼ばれていた。家には教えるための大きな部屋があった。今おまえたちに話しているように、一度に4,50人の学生に教えたものだ。彼らより前の時代の人たちが書いた本について話をした。ときには、当時まだ生きていた人の作品のことも」

「おじいがしていたのはそれだけ? ただ話すだけ?」フーフーが聞いた。「じゃ、だれがおじいの食べる肉を取っていたんだ? ヤギの乳をしぼったり、魚を捕まえたりするのは?」

「もっともな質問だ、フーフー。さっき話したとおり、食料を得るのは簡単だった。当時の人間はとても賢かった。ある人たちが、ほかのたくさんの人のために食べ物を作っていたんだ。ほかの人はというと、別の仕事をしていた。おまえの言うとおり、わしの勤めは話をすることだった。ひがな一日話をしていればよく、食事はほかの人が用意してくれた。贅をつくした、見た目にも美しい、食べつくせないほどの料理の数々。そんな食べ物はこの60年というもの口にしていないし、これからも口にすることは決してなかろう。わしはな、人類の偉大な文明の一番の功績は、食にあったと考えることがある。おまえたちには想像もつかない、驚くべき豊かな山海の恵みだ。子どもたちよ、すばらしい美食であふれた当時の暮らしこそが、生きるに値する人生というものだ」

この話も少年たちには見当もつかなかったから、もうろくした老人のたわごととして相手にされなかった。

「食べ物を取ってくれる人たちは自由人と呼ばれていた。皮肉な名前だ。わしら支配者階級は土地も機械も、なにもかも持っていた。自由人は奴隷だった。わしらは彼らが作る食料をほとんど取り上げた。食べて働いてもっと食べ物を作れるだけのぶんを、少しだけ 彼らに残してーー」

「おれなら食べるもんは自分で森に行って取ってくるよ」ヘアリップは言った。「で、だれかにそれを取られそうになったら、そいつを殺す」老人は笑った。

「支配者階級はすべての土地や森や、あらゆるものを持っていたと言ったろう? 食べ物を作ろうとしない自由人は追放されるか、飢え死にするしかなかった。そちらの道を選ぶ者はほとんどいなかったよ。彼らにとっては、わしらのために食べ物を取ってきたり、服を作ったり、わしらの要求を満たす仕事を千回でも繰り返すほうがよかったんじゃーー千はムール貝一つ分だ、フーフー。そして当時、わしはスミス教授と呼ばれていた。ジェームズ・ハワード・スミス教授。当時、わしの講義はとても人気があった。つまり、おおぜいの男や女の学生が、ほかの人たちが書いた本についてわしが話すのを聞きたがったということだ。わしはこの上なく幸せで、うまいものを好きなだけ食べていた。食べ物を取る仕事はしなかったから手はやわらかく、体はいつもきれいで、肌触りの良い服を着ていたーー」

 老人は自分がまとっている、みすぼらしいヤギの皮をうんざりした顔で見下ろした。「当時は、だれもこんなもの着やしなかった。奴隷だってもっとましなものをもらっていた。わしらの生活はすみずみまで清潔だった。顔や手を毎日何度も洗っていた。おまえたちが水を浴びるのは、水たまりに落ちた時か泳ぐ時くらいだろう」

「おじいもな」フーフーがやり返した。

「わかっとる。わしは汚い老人だ。世の中はすっかり変わってしまった。きちんと体を洗うものなど一人もおらん。わしが最後に石鹸を見たのは60年も前のことだ」
「おまえたちは石鹸が何かも知らんが、 その話はまた今度な。今は緋色病の話だ。おまえたち、体の具合が悪くなることがあるだろう。病気のことだ。病気の多くは、細菌というものが原因だ。『細菌』という言葉を覚えておきなさい。さて、細菌はごくごく小さい。春になると犬が森を走りまわってダニを拾ってくる、そのダニのようなものだ。ただ、あまりにも小さいので目に見えないーー」フーフーが笑いだした。

「おじい、目に見えないものだなんて気はたしかか? 見えなかったら、どうやってそれがあるってわかる? 教えてくれよ、どうやったら目に見えないもののことがわかるんだ?」

「いい質問だ、フーフー。しかし、いくつかの細菌を見る方法はあった。顕微鏡や高性能顕微鏡といわれるものがあって、それを使うとものを大きくして見ることができたんだ。顕微鏡なしでは見ることのできないものがたくさんあった。当時、一番強力な高性能顕微鏡は、細菌を一万倍にして見ることができた。ムール貝はエドウィンの指が千本ということだったな。顕微鏡を通すと、そのムール貝40個分と同じくらい、細菌を大きくして見ることができた。さらにそのあとは、『ムービング・ピクチャ』と呼ばれる方法を使って四万倍に拡大したものをさらに何千倍にも大きくできた。どれだけ細菌が小さいかというと、まず砂の粒を十個に分ける。その中の一つをとって、さらにまた十に分ける。その一つをまた十に分ける。その一つをもう一度十に分ける。これを一日ずっと続ければ、日の暮れるころには細菌と同じ大きさの粒になるかもしれんなあ・・・」

 少年たちはまるで信じられないという顔をしていた。ヘアリップは鼻をフンと鳴らし、老人を嘲笑した。フーフーもひひひと笑い声をあげたので、エドウィンが二人に肘鉄をくらわした。
「ダニは犬の血を吸う。細菌はごくごく小さくて、体に入りこんで血の中で子どもを大勢増やす。そうすると、人の体で細菌は十億個以上に増えるーーそう、カニの甲羅一個ぶんだ。それは微生物と呼ばれていた。この細菌が人の体の血の中で何百万、何十億と増えると、その人は具合が悪くなる。この細菌が病気のもとじゃ。細菌にはそれは多くの種類があったーーこの浜の砂よりも多いくらいのな。人間が理解していたのはその中のごくわずかだ。微生物の世界は人間の目に見えず、人間にはほとんど未知の世界だった。しかし、わしらが知っている菌もあった。たとえば炭疽菌やマイクロコッカス、高温細菌、乳酸菌などーー これは今でもヤギの乳をすっぱくさせる菌だ。また、分裂菌にいたってはまったくキリがない。このほかにもーー」

 老人はそれから、恐るべき長さの言葉や表現を駆使して、聞き手の理解の届かない大演説をぶち始めた。少年たちはお互いの顔を見ながらニヤつくとアシカが去った海を見やって、老人がまだぶつぶつと話していることを忘れてしまった。

「おじい、赤い病気は?」エドウィンがとうとう話しかけた。 おじいははっとわれに返り、たった今まで別の世界の聴衆に向かって細菌や細菌性の疾病について、60年前当時最新の理論を講義していた演壇からあわてて下りてきた。

「ああ、そうだ、エドウィン。ついうっかりした。昔の記憶があまりにも鮮明なもので、ときどき自分がヤギの皮を着た汚らしいじいさんだということを忘れてしまう。ヤギ飼いの粗野な孫息子たちと一緒に、原始の荒野をうろついているということもな。『儚い文明はうたかたのように過ぎ去る』 から、わしらの栄光に満ちた壮大な文明も滅びてしまった。今ではわしはおじいと呼ばれる、くたびれた老人だ。わしには息子と娘が何人かいて、それぞれショーファー族やサクラメント族、パロアルト族のものと結婚した。ヘアリップ、おまえはショーファー族、エドウィン、おまえはサクラメント族、フーフーはパロアルト族だ。パロアルト族の名前は、UCバークレーと双璧をなす最高学府のあった町から来ている。ほかでもない、スタンフォード大学じゃよ。ええと、そうだ、すっかり思い出した。緋色病の話だったーーどこまで話したかな?」

「サイキンだよ。目に見えなくて、人間を病気にするもの」エドウィンが助け舟を出した。

「おお、そうだったーー細菌が体に入っても、最初は気がつかない。しかし、細菌は半分に分かれて二つになる。これをものすごい早さで繰り返して、あっという間に何億という数に増えるんだ。そこで初めて人間は具合が悪くなる。これが病気にかかった状態で、病気の名前は体に侵入した細菌の名前からつけられる。はしかやインフルエンザ、黄熱というのもあった。細菌性の病気は、何千種類もの種類があるんじゃ」

「さて、ここからが細菌の不思議なところだ。人間の体には、次々と新しい細菌が侵入した。うんと遠い昔、世界に少ししか人がいなかったときは、病気もほとんどなかった。しかし、人間が増えて大都市や国でみんなが一緒に暮らすようになるにつれて、それまでになかった病気も現れ、新しい種類の細菌が人間の体内に入っていった。そうして何百万、何十億という数の人間が犠牲になったのだ。しかも人口が密集すればするほど、新しく生まれる細菌も威力を増していった。わしが生まれるずっと前、中世には黒死病という伝染病がヨーロッパを席捲した。ヨーロッパではこれが何度も大流行したんじゃ。結核という病気も発生して、人が大勢住んでいるところで猛威をふるった。また、わしが生まれる百年ほど前は腺ペストが流行った。アフリカでは睡眠病というのがあった。専門家がこぞってこれらの病気と闘って絶滅させてきた。ちょうどおまえたちがヤギからオオカミをおいはらったり、体にとまった蚊をつぶしたりするのと同じようにな。 細菌学者らはーー」

「でもおじい、えーと、そのサイキンなんとかって」エドウィンがさえぎった。

「エドウィン、おまえはヤギ飼いだ。おまえの仕事はヤギを見張ることで、おまえはヤギについていろいろ知っているだろう。細菌学者は細菌を見張る。それが仕事で、彼は細菌についていろいろ知っている。さっき言ったように、彼らは細菌と戦い、ときには撲滅に成功したこともある。たとえば、らい病という恐ろしい病気があった。学者はらい病のことをよく知っていて、さらに徹底的に研究した。しかし、らい病を完全になくすことはできなかった。わしはらい患者やらい菌の写真も見たことがあるぞ。だが、菌を殺す方法はついにわからなかった。さらに1984年にはパントブラスト病がブラジルという国で起きて、何百万もの人が命を落とした。しかし彼らは病原をつきとめて、治療方法を見つけた。だからパントブラスト病はそれ以上広がらなかった。どうするかというと、ワクチンというものを作って患者に投与する。すると、病人は無事なまま菌だけが死ぬんだ。また、1910年にはペラグラや鉤虫感染症という病気も広がった。この二つは容易に駆逐できた。しかし1947年に、前代未聞の病気が蔓延した。十か月未満の赤ん坊だけがかかる奇病で、これにやられると頭や足が動かなくなり、食べることもなにもできなくなる。専門家が研究を重ね、その菌を殺して赤ん坊を救う方法を発見したのは、じつに11年後のことだった」

「これだけいろいろな菌が広がって、新しい病気も次々に発生していたのにも関わらず、世界の人口は増え続けた。というのも、食料がやすやすと手に入ったからだ。食べ物が簡単に生産できれば、それだけ人は増える。人が増えれば、それだけ人の住むところは密集するようになる。人が密集すればするほど、もっと新しい種類の細菌が生まれて病気を引き起こしていくという具合だ。だが、警鐘を鳴らすものはおった。ソルダベツスキーという学者は早くも1929年の時点で、近い将来既存のものより何千倍も致死率の高い新型病原菌が生まれて、何千万はおろか何十億もの犠牲者を出すという可能性を示したのだ。だが結局最後まで、微生物の世界は謎のベールに覆われたままだった。そうした生物の世界が存在していて、ときおりそこから新しい細菌の軍団が人間を攻めてくるということは知られていたがな。

ーーとまあ、人間に分かっていたのはそこまでだ。 はっきりしていたのは、目で見えないミクロの世界には、この浜辺の砂つぶと同じくらい多くの種類の細菌があるということだけだ。地球上の最初の生命が誕生したのも、その細菌の世界だったかもしれん。そうして生まれた細菌は、ソルダベツスキーが先人の言葉を借りて『奈落の繁殖力』と呼んだ勢いで増えていった・・・(イギリスの詩人 William E Henry の詩 The Song Of The Sword からの引用) 」

 ヘアリップはここまで来たところで、強い侮蔑の表情をあらわにしてすっくと立ちあがった。「あんまりわけわかんないでムカムカしてきた。なんで赤い病気の話をしないんだ? しないんだったらそう言えよ、もうキャンプに戻るから」

 老人は孫の顔を見て、静かに泣き出した。弱々しい涙がほほを伝い、87歳という年齢のもろさが、悲嘆にくれたその顔に浮かんだ。「いいから座れ」エドウィンがそっととりなした。

「大丈夫。おじい、もうすぐ赤い病気の話になるんだよな? 今から始まるから座れよ、ヘアリップ。さあおじい、つづきを頼むよ」

第二章 了 つづく


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