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緋色病 第六章

 いよいよ最終章。「深窓の麗人」「アーリア人による世界制覇を夢想するヨーロッパ系知識人」という設定は、さすがに時代を感じさせます。

 緋色病が起きた2013年は、アトムが誕生した年。七年後の遠くて近かった未来には、才能豊かなクリエーターたちの想像をも絶する出来事が現実に起きました。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。大好きな作家のタイムリーな傑作を訳すことができて幸せでした。次は何にしようかな。(写真:ゴールデンゲートブリッジ)

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 わしはショーファーのキャンプで責め苦のような三週間を過ごした。ある日、やつはわしがいよいよ邪魔になったのか、ヴェスタ様への悪影響が辛抱ならなくなったのか、前の年、コントラコスタ・ヒルズを通ってカークイネス海峡に出たときに焚火の煙が見えたという話をわしにした。ほかにも人がいるかもしれないという意味だが、三週間もの間、やつはこの貴重な情報をわしに隠しておったんじゃ。それを聞くや否やわしはイヌと馬とポニーを連れて出発し、 コントラコスタ・ヒルズ経由でカークイネス海峡に抜ける旅に出た。海峡の反対側に煙は上がっていなかったが、コスタ港で鉄のはしけを見つけたので動物をそれに乗せて海に漕ぎ出した。古いキャンバス布を帆の代わりに張り、南からの風を受けて海峡を渡って、バレーホの廃墟にたどりついた。そしてバレーホの郊外で、最近まで人のいたらしい野営跡を見つけた。

 ハマグリの貝がらがたくさん落ちていたから、 食料を求めてサンフランシスコ湾の岸辺でキャンプを張っていたのだろう。その人たちがサンタローザ族で、わしはソノマ・バレーに通じる塩沼の古い鉄道に沿い、 彼らのあとを追った。そうしてグレン・エレンのすたれたレンガ工場で、みんなに追いついた。その時サンタローザ族には全部で18人いた。二人は老人で、一人は銀行家のジョーンズ。もう一人は引退した質屋のハリソンだ。彼はナパの州立精神病院の看護婦長をめとっていた。豊かで人口の多いナパ・バレーの市町村で、生き残ったのはハリソンの妻一人きりだった。

 ほかに若い男が三人いて、カーディフとヘールは農夫、ウェインライトは日雇いの労働者だった。三人とも女房を見つけていた。無骨で無学の農夫だったヘールは、疫病をまぬがれたものの中でヴェスタ様の次に素晴らしい女性、イザドアを手に入れていた。彼女は世界でも指折りの歌手で、緋色病が起きたときサンフランシスコに来ていたのだ。イザドアはわしに何時間もかけて、サンフランシスコから逃げたあと経験した冒険の数々について語ってくれた。メンドシノ森林保護区に落ちのびたところでヘールに助けられ、彼の妻にならざるを得なかったという話だった。しかしヘールは読み書きこそできんが、善良な男だった。正義感が強く、曲がったことが嫌いな性分だったから、ショーファーの毒牙にかかったヴェスタ様よりイザドアはよっぽど幸せだったよ。

 カーディフとウェインライトの連れ合いは普通の女で、体が丈夫で力仕事にも慣れていたーー疫病のあとの大変な新生活にぴったりの手合いじゃ。ほかにはエルドリッジの施設にいた、知恵おくれの大人が二人。あとはサンタローザ族ができてから生まれた小さい子どもと赤ん坊が五、六人いた。最後がバーサだ。ヘアリップよ、おまえの父親がいくらバカにしようとも、あれはまっとうな人間だったよ。わしが一緒になったのがそのバーサだ。エドウィンとフーフー、そうしておまえの父親が生まれた。娘のヴェラはヘアリップ、おまえの父親のサンドーのところに行った。ヴェスタ・ヴァン=ワーデンとショーファーの長男じゃ。

 こうしてわしはサンタローザ族の19人目のメンバーとなったわけだ。わしの後に来たのは二人しかおらんかった。一人はマンガーソン。父親が富豪員会の会員で、北カリフォルニアの山を 一人で八年もさすらい、南に下ってやっとわしらと一緒になった男だ。あれはうちのメアリと結婚するのにそれから12年待った。もう一人がユタ族を始めたジョンソンだ。ユタというのは彼の出身地で、西の巨大な砂漠を超えてはるかかなたにある国だ。ジョンソンが疫病のあとカリフォルニアに到達するのに、27年もかかった。彼によると、ユタでは三人しか生存者がおらず、すべて男だったそうだ。彼らは一緒に狩りをしながら暮らしていたが、そのままでは人類が絶えてしまうかもしれないという不安にかられて、西方のカリフォルニアで女を探す旅に出た。だが大砂漠を脱出できたのはジョンソンだけで、ほかの二人は途中で力つきてしまった。

 彼がわしらのところに来たのは46歳のときで、イザドアとヘールの四女を妻にした。そして、二人の最初の子はヘアリップ、おまえの叔母さんと結婚した。つまり、ヴェスタ様とショーファーの三番目の娘だ。ジョンソンは屈強で、自分の意思をしっかりと持っておった。そういう男だったからこそサンタローザ族を離れて、サンノゼでユタ族を始めたのじゃ。わずか九人の小さな部族だが、ジョンソンが死んだあともその精神はまだ受け継がれておるし、子どもらはみんな父親に似てたくましい。これから強力な部族に成長して、文明の再生に大きく貢献するじゃろう。

 ほかにわしらが知っている部族は二つしかないーーロサンジェルス族とカーメル族だ。カーメリートは男女の二人組が始めた。男の名はロペスといい、古代メキシコ人の子孫で、とても色が黒かった。緋色病の前は、カーメルの先の牧場で牛飼いをしていた。妻はあの豪奢なデルモンテ・ホテル(モントレーにあるホテル・デルモンテ。1880年創業の高級ホテル)の女中頭だった。 ロサンジェルス族と最初に出会ったのは、わしがサンタローザンになってから七年後のことだ。ずっと南にあって住みやすそうな国だが、わしには暑すぎるな。今の世界の人口は、わしが見たところ三五〇人から四百人というところだろうよ。カリフォルニアのほかにも小さな部族が散らばっていなければの話だがな。そんなことがあったとしても、外の世界から便りが届いたことは一度もない

 ジョンソンがユタから砂漠を超えて来て以来、東からはなんの音沙汰もなければ、人影ひとつ現れたこともない。わしが少年期と青年期を過ごした偉大な世界は姿を消した。わしは、緋色病が猛威をふるったはるか遠い昔と当時の高度な文明を知っている最後の人間じゃ。陸海空すべての地球を制覇して、神のようにふるまっていた人類は、今ではカリフォルニアの沿岸で太古の原始人同然の暮らしをしておる。しかし、わしらの人数はどんどん増えている。ヘアリップ、おまえの姉さんはすでに四人の子持ちだ。わしらはせいぜい子孫を増やして、次の文明を築く準備をせねばならん。この調子で人口が増えれば、否応なく部族は遠くに広がっていく。今から百世代も先になれば、わしらの子孫がシエラ山脈を超え、一世代ごとにじわじわと東に広がって、最後には東海岸一帯を植民地にできるかもしれん。きっとそこから、アーリア人が世界に広がっていくだろうよ。

 しかし、それが実現するのは気が遠くなるくらい先の話じゃ。同じ頂点をまた極めるには、長い長い上り坂を登らなくてはならん。なにしろ奈落にころげ落ちてしまったんだからな。せめてたった一人、物理学者か科学者が生き残っていたら! しかし現実はそうならず、人類の叡智はすべて忘れられてしまった。たとえば、ショーファーは鍛冶屋のまねごとをしていた。今わしらが使っている炉はやつが作ったものじゃ。しかしあれは怠けものだったから、死んだときに金属や機械について自分が知っていることは他のものに引きつがず、全部墓場に持って行きおった。そんな知識が、わしにあるはずもない。わしは古典文学専門の学者で、化学者ではないのだ。ほかの生存者に、教育を受けたものはいなかった。ショーファーがなしとげたのはたった二つ、強い酒をかもすことと、煙草を栽培することだけじゃ。やつがヴェスタ様を殺したのは、例によって酔っぱらっている時だった。わしは、やつが酔って暴れたはずみにヴェスタ様を殺したと信じている。本人はずっとあれは事故で、 ヴェスタ様は湖に落ちておぼれ死んだと言い張っておったがな。

 それから子どもたちよ、祈祷師には気をつけることじゃ。やつらは医者と名乗ってはいるが、昔の立派なドクターとは似ても似つかぬしろものだ。あいつらの正体はただのまじない師。インチキもいいところで、迷信とデタラメをまきちらしている、大ぼらふきの詐欺師だ。しかしあまりにも正当な知識が失われてしまったので、やつらの嘘っぱちがまかり通っているのじゃ。やつらもこれから人が増えるにつれて数を増し、ほかの人間を支配しようとするだろう。しかしやつらはあくまでも嘘つきのにせ医者だ。

 クロス・アイズ(やぶにらみの意)の若造は医者のふりをして、うまい肉や毛皮と引き換えに、病気よけの護符だの狩がうまくいくお守りだのを配ったり、天気が晴れるまじないをしたりしている。あげくの果てに死の棒などという代物で人を脅して、まやかしのやりたい放題じゃ。いいか、子どもたちよ、やつがそうしたことをできると言っても、全部真っ赤なウソだ。このスミス教授、ジェームズ・ハワード・スミス教授が、クロス・アイズは嘘つきだと断言しよう。実際、わしは面と向かってやつにそう言ってやった。それでもどうしてやつはわしに死の棒を使わないんだ? わしにはそんなまじないがきかないと知っているからだ。しかしヘアリップ、おまえは下らない迷信を信じこんでいるから、今夜目をさまして枕元に死の棒が置いてあるのを見たら、ショックのあまり死んでしまうだろう。しかしおまえがそうやって死ぬのは死の棒の威力などではなく、おまえが蒙昧な未開人で、道理というものを知らんからじゃ。

 インチキ医者の連中は処分せねばならん。そうして、失われた医学の知識をもう一度取り戻すことだ。そうしたらわしがおまえたちに正しい知恵を授けてやろう。おまえたちもそれを自分の子どもたちに伝えられるようにな。たとえば、水を火にかけると湯になり、蒸気という素晴らしい動力ができる。蒸気は、人間を一万人集めたよりも強い力を出せて、人力に取って代わる働きができるんじゃ。ほかにも有用なものはたくさんある。たとえば、稲光にも同じように人間が利用できるエネルギーがある。人はそれをうまく使いこなしたものだが、いずれまたそうするようになるだろう。

 アルファベットはまた別の話じゃ。わしはそれを知っているから、硬貨に刻まれた細かい印の意味がわかる。かたやおまえたちは、絵文字しか知らん。サンタローザンが海に降りていくとき、わしがテレグラフ・ヒルの乾いた洞窟によく寄るだろう。そこには本というものをたくさん運び込んでいるのだ。本には偉大な学問が書かれている。アルファベットの読み方も残してあるから、絵文字を知っている者ならそれを見れば活字も読めるようになるだろう。いつの日か人類はまた読み書きを習得し、もしわしの洞窟が無事だったら、ジェームズ・ハワード・スミスという教授がかつて存在し、彼らのためにいにしえの知識を保存したことを知るだろう。

 未来の人間が再発見するであろう利器がもう一つある。弾薬というものじゃ。かつて人が、確実に遠くにいる獲物を仕留めることができたのはそれのおかげだ。土の中のある物質を正しい割合で混ぜると、弾薬ができる。わしは作り方を忘れてしまったか、あるいは最初から知らんかったかもしれん。今覚えていたらどんなに良かったろう。そうすればクロス・アイズのやつを殺して、迷信をこの世から追い払ってやるのにーー。

「おれが大人になったら、 ありったけのヤギと肉と毛皮をクロス・アイズにやって、医者になる方法を教えてもらう」フーフーが言った。「そしたらみんな、おれを怖がって大切に扱う。うやうやしく土にひざまずいて、願いごとを頼むんだ」 老人は厳粛にうなづくとつぶやいた。

「アーリア人の複雑な言語の名残りが、毛皮を来た薄汚い野生児の口を切れ切れについて出るとは不思議なことよ。世界はめちゃくちゃだ。緋色病が起きて以来、世界はめちゃくちゃになってしまった」

「おれはおまえが医者になっても怖がったりしない」ヘアリップは、呪術師志望のいとこに言った。「死の棒をだれかに使うよう頼んで相手が死ななかったら、おまえの頭をかち割ってやる。わかったか?フーフー」

「おれはおじいにダンヤクのことを教えてもらうんだ」エドウィンはぼそっと言った。「それでおまえたちみんなを思い通りに動かす。ヘアリップ、おまえにはおれの代わりにけんかをさせて、肉を取ってこさせる。それからフーフー、おまえはおれの言う通りに死の棒を使って、みんなをおどかすんだ。で、ヘアリップがおまえの頭をかち割ろうとしたら、ヘアリップもダンヤクの力で大人しくさせる。おじいはおまえらが思ってるようなあほうじゃない。おれはおじいの話をよく聞いて、大きくなったらおまえらをあごで使ってやるんだ」老人は悲しげに頭をふった。

「弾薬はいずれまた誰かが作るだろう。誰にも止められはしない。いつまでもずっと同じことの繰り返しだ。人間が増えるにつれて、争いが起きる。弾薬を使えば何百人もの人間を一度に殺戮することができる。戦火と流血によってのみ、新しい文明は遠い未来に築かれるのだ。それも一体なんのためじゃ? 古い文明が滅びたように、新しい文明もまた滅びる。次の文明が起きるまでに五万年かかるかもしれんが、最後にはそれも消え去る。すべてのものが消え去る運命だ。あとに残るのは無限にある宇宙の動力と物質だけだが、それも互いに反応して作用しあい、僧侶や兵士や王といった役割の人物を永遠に生み出し続ける。赤ん坊の口からは全世代の英知がこぼれるだろう。あるものは戦い、あるものは支配し、あるものは祈る。残りのものはあくせくと働いてもがき苦しみ、あげくの果てに血を流しながら死ぬ。その死体の山の上に、新たな文明が花開き、驚異的な美しさと未曾有の繁栄を誇るだろう。洞窟の本は、今わしが捨ててしまってもきっと同じことじゃ。本が残ろうが消えようが、本に書かれた古来からの真実は再び見い出される。人々はその嘘を生きて、次の世代に引き継いでゆくだろう。一体どんなーー」

 ヘアリップはぴょんと立ち上がると、沈みつつある太陽を浴びて草を食むヤギにちらっと目をやった。
「うへえ」ヘアリップはエドウィンにささやいた。「じじいの話、どんどん長くなるぜ。もうキャンプに戻ろう」 

 ほかの二人がイヌに手伝わせながらヤギを集め、森の中の小道に誘導する間、エドウィンは老人のそばにいて、同じ方向に付き添った。キャンプに通じる道につくと、エドウィンは突然立ち止まってふり返った。ヘアリップとフーフー、番犬とヤギの群れは先に行った。エドウィンは、硬い砂の上に降りてきた野生馬の小さな群れを見ていた。二十頭はいただろう。仔馬と二歳馬くらいのと雌馬。群れを率いているのは見事な雄で、波うち際の白い泡のところに立ち、首を丸めて明るい目を見開き、海から寄せる潮風の匂いを嗅いでいる。

「どうした?」おじいがたずねた。「馬だ。馬がビーチにいるの、初めて見た。マウンテンライオンがあんまり増えてるんで、ここまで下りてきたんだね」 

 地平線にかかる雲のすき間から、 傾いた太陽の赤い光が射して扇型に広がる。浅瀬に打ち寄せる波が白く砕ける中、アシカが古代から続く歌を歌い、海から黒い岩場によじのぼり、戦い、愛を交わしているのがすぐ近くに見えた。 

「もう行こう、おじい」エドウィンがせかした。毛皮をまとった野蛮な風体の老人と少年はふり返り、ヤギが過ぎたあとの森の帰り道を歩いていった。

『緋色病』了


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