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人や社会に対する信条と8つの書籍。あと人生のこと

●利己的な遺伝子/リチャード・ドーキンス

生物は遺伝子に生じる「突然変異」と「自然淘汰」により進化してきました。ランダムに生じる変異のうち、環境に適した変異は、それを有する個体が多く生き残ることで次の世代へ引き継がれ、そうではない変異は排除されます。
また現代の生物学は、自然淘汰だけではなく、複雑で多様な進化のメカニズムも明らかにしています。様々な要因により、遺伝情報に生じた変異が集団内で広がったり、減ったりすることで、生物の性質は多様に変化してきました。
そうして、たった1つの共通祖先から、あらゆる生物が生まれたのです。我々サピエンスも、この進化の過程で約20万年前にアフリカで誕生しました。

ここで心に留めておきたいのは、進化の基本原理は偶然と適応性であり、進化には生物を強くするとか、賢くするといった特定の方向性があるわけではないことです。進化は「進歩」ではないし、優れた遺伝子というものも存在しません。
というのも、変異(=生物の性質)の有利/不利は、それ単体で決まるものではなく環境によって決まるからです。同じ変異が、ある環境では有利になっても、別の環境では不利になるかもしれません。
また、変異が次世代に引き継がれるか否かは、必ずしも環境に対する有利/不利だけで決まるわけではありません。淘汰(=環境)に対して中立な変異が、偶然、次の世代へ引き継がれることもあります。
遺伝子に変異が発生するのも、変異が引き継がれるのも、偶発的なものです。

この遺伝子の営みは、約40億年続く自然現象であり、そこに目的はありません。物が重力に従って落ちる自然現象に、それがないのと同様です。
その営みから誕生した僕たちサピエンスも同じ存在です。

●サピエンス全史/ユヴァル・ノア・ハラリ

サピエンスはホモ属の一種です。約20万年前に、サピエンスが誕生した時、地球上には、ネアンデルタール人など他のホモ属も存在していました。しかし、生き残ったのはサピエンスだけで、他のホモ属は全て絶滅しています。

ホモ・サピエンスという名前は「賢い人」という意味ですが、個体としての「賢さ」が我々が生き残った理由とは言えません。
というのも、サピエンスの誕生前からホモ属の脳は十分に拡大しており、実際、ネアンデルタール人はサピエンスよりも大きな脳を持ち、サピエンスと同様に高度な道具を作り、利用していました。そのネアンデルタール人は、約4万年前に絶滅しています。

サピエンスが他のホモ属より優れていたのは社会性の高さであり、具体的には、大きな群れ/集団をつくる力です。
サピエンスは集団生活を通じて、社会的な規範を形成したり、他者から適応的な技術や知恵を学んだり、集団で高度に協力するようになりました。
また、約7万年前に生じたサピエンス全史で言う「認知革命」以降、サピエンスは抽象的な思考が深まり、社会の秩序を維持するための「虚構」を信じられるようになりました。これもまた大切な社会性です。神話や伝説といった虚構だけではなく、宗教や道徳、また貨幣や帝国といった社会における虚構をうまく利用することで、サピエンスの共同体は、秩序を保ちながら大きくなっていきました。現在でも、資本主義や国民国家といった虚構がその役割を果たしています。

この社会的な心の形成は、遺伝子に対する淘汰の結果です。
サピエンスは、脳の一部機能が弱まったり、ホルモン分泌が変化することで、他のホモ属と比べて穏やかで協力的に進化してきたことを、化石研究や分子生物学が示しています。
その他の心の性質も同様です。僕たちが感じる「幸せ」とは、生存に有利な行動を促すための感情です。つまり、生物の進化において「幸せ」とは目的ではなく手段です。

遺伝子が形成するのは、なにも身体だけではありません。心や感情も、遺伝子によって形成されています。僕たちの心や感情は、遺伝子が次の世代に残るように進化の過程で形成されたプログラムです。

●進化しすぎた脳。単純な脳、複雑な「私」/池谷裕二

遺伝子が心や感情を形成していても、サピエンスには発達した脳があります。そのため、他の生物とは異なり、僕たちは、理性的な意思を基に行動や判断をしており、遺伝子から自由であるかのように感じるかもしれません。しかし、脳科学はそれを否定しています。

というのも、僕たちの脳は、外部からのインプットを受けて、「無意識」に情報処理を開始し、アウトプットしています。そして、その無意識なアウトプット信号が発せられた約0.3秒後にそれをしようと意識が生まれ、約0.5秒後に実際に身体が動きます。
僕たちは、この約0.2秒のタイムラグにより「自分の意思で行動した」と錯覚しているにすぎません。実際は、脳の無意識活動により、意識と行動が同時に生じているのです。

脳のアウトプット、すなわち僕たちの行動や判断の多くは、意思の結果ではなく、遺伝的要素や過去の経験に基づいた無意識のプロセスによって行われます。僕たちは、自分がそうありたいと思うほど理性的な意思決定者ではありません。

僕たちの体の中で生じる事象は、全て自然の法則に従った現象であり、脳の活動も例外ではありません。
僕たちはアルゴリズムであり、僕たちの行動はデータ処理の結果です。

●ファスト&スロー/ダニエル・カーネマン、社会心理学講義/小坂井敏晶

サピエンスの理性は、脳科学や生物学といった自然科学だけではなく、行動経済学や心理学といった社会科学の実験でも否定されています。

例えば、僕たちは目的や因果関係がないことでも、それがあるかのようにストーリーを作り出します。不都合なできごとを正当化して、自分を納得させます。無意識な行動も、周囲の影響を受けた行動も、自分の合理的な判断だったと後付けします。良い結果は自分の優れた行動や判断のおかげ、悪い結果は運が悪かったと考えます。

このように、サピエンスの脳は、無意識による行動や判断、また偶然や不確実な状況に対して、認知が「思い込み」を作りがちです。他の生物種も僕たち(仲間)と彼ら(敵)を二分し、階層や格差をつくりますが、サピエンスはその理由を宗教やイデオロギーで説明しようとします。
僕たちは、無意識(=情動)に対して認知を追いつかせる過程で、正当化を合理性に、信じたいことを事実にしていきます。

もっと言えば、価値観、すなわち僕たちが理性的に正しいと思うことは、社会が作っており、個人が自由で主体的に作っているわけではありません。僕たちの価値観は、自分で築いたものではなく、社会やそこに生きる人々との相互作用で形成されたものです。
別の言い方をすれば、僕たちの脳と社会は共進化の関係にあります。環境と遺伝子の関係と同じように、社会が脳のアルゴリズムを形成し、その脳を持つ人々が次の社会を築いていきます。
僕たちが正しいと信じていることは、社会や時代特有のものにすぎません。特定の社会や時代に生きる僕たちは、普遍的に正しいことを考えられる存在ではないし、そもそも普遍的に正しいことはどこにもありません。

理性的な意思により個人が主体的に行動を決めるという人間像は、近代西洋社会が築いた虚構であり、人の実情に合っていません。

逆に理性的で合理的な人間像を体現した存在として、AIが誕生しています。また、AIが人より優れているのは合理性だけではありません。AIが発達した後でも、人らしさとして残されると思われていたもの、例えば、創造性や芸術、ひらめきや直観、気遣いやカウンセリングといったものですら、AIは人より優れるようになるでしょう。

ただ、それは社会における人の存在価値を否定するものではありません。
僕は、本節で前述した脳のバグである「思い込み」こそが、最後に残る人らしさだと思っています。
僕たちは、情報(=学習データ)が不十分でも、これが正しいと思い込んで行動や判断します。正しい答えがわからなくても、何かを選び、選んだ答えが正しいと信じることができます。
それは社会に生じる「変異」になります。

●鉄・病原菌・銃/ジャレド・ダイアモンド

「変異」と「淘汰」は、生物の進化だけではなく、社会の変化の原動力でもあります。

サピエンス全史で言う「認知革命」以降も、サピエンスは長く狩猟採集生活を続けていました。しかし、約1万年前に気候の安定期に入ると、農耕社会が現れ始めます。
すると、人口が増加し、階層化や「分業」が進みます。そして、専門家や専門組織が現れ、担当する分野や技術に小さな「変異」が生まれやすくなりました。
また、他の社会との「交流・交易」が盛んになります。交流・交易により、地域や時代を超えて多数の変異が集積し、適した変異が「選択=淘汰」されることで、社会が変化していきました。

農耕社会以降の歴史を一言で言えば、「分業」の粒度を多様で細かくし、「交流・交易」の範囲をユーラシア大陸、新大陸、電子空間へ拡大する歴史だったと言えるでしょう。つまり、社会に「変異」と「淘汰」を促す歴史だったとも言えます。

この「分業」と「交流・交易」、「変異」と「淘汰」の中心地域だったのがユーラシア大陸や近代西欧でした。

ユーラシア大陸では、栽培しやすい植物や家畜にしやすい動物が多く存在しており、農耕社会、すなわち「分業・専門化」の開始が容易でした。また、同じ気候・環境条件が広がる東西に伸びた大陸であったため、「交流・交易」が容易でした。一方、アメリカ大陸は、その両方が困難な環境でした。

加えて、ユーラシア大陸のなかでも、特にヨーロッパでは、山、川、海岸線といった自然の障壁が多く、1つの国の単位が小さいため、適切な変異を採用しなければ、それを採用した国に淘汰されやすく、大国が統治していたアジアより、変化が促される環境でした。
そうした環境において生じた社会制度と人々の脳や心理の共進化のなかで、現代の「普遍的価値観」と思われている資本主義や人権が生まれ、産業革命が始まりました。

ユーラシアや西欧の社会が、他の社会を征服したのは、「分業」と「交易」が促されやすい環境だったためです。そこに居た人々が、優れていたためではありません。

人間の歴史は、生物の進化と同じように、社会で生じる「変異」と「淘汰」の繰り返しです。

●ブラック・スワン - 不確実性とリスクの本質/ナシーム・ニコラス・タレブ

これまで述べてきたように、物質だけではなく生物や人ですら、分子(DNA)レベルの自然法則で説明ができるようになると、世界が決定論かのように感じるところがあります。つまり、世界は自然法則に従って動く巨大な機械であり、科学で世界を余すことなく記述できるという世界観です。

しかし、科学は決定論的な世界を明らかにすると同時に、それとは相反する非決定論的な世界も明らかにしてきました。例えば、相対性理論や量子力学は、世界が絶対的でもなければ、決定的でもないことを示しました。

また、分子生物学や脳科学は、世界が「複雑系」であり、世界を構成する要素を理解しても世界全体を記述できないことを示しました。

「複雑系」の特徴は、要素の性質や法則よりも、要素同士の相互作用の影響が大きいことです。数多くの要素で全体が構成され、各要素が相互かつ複雑に作用しあっているため、要素の法則がどれだけ正確に明らかになっても、全体のふるまいを予測できません。そこで生じた結果を因果で説明したり、今後の未来を確率的に予測するのは困難です。決定論や必然性で語れるものではないのです。

例えば、同じ遺伝子を有していても、ある性質が形成されるかどうかは環境との相互作用です。その相互作用をベースに、脳のアルゴリズムは形成されますが、人生経験や生まれ育った社会(文化)との相互作用の影響を受けます。さらに、同じ脳のアルゴリズムを有していても、脳のアウトプット(行動や判断)は、その時の脳内/体内のホルモン分泌やエネルギー量との相互作用により変化します。
このように僕たちの行動や判断は、何か1つの要素で決まったり説明できるものではなく、数多くの要素による相互作用が収束した結果です。1つの法則や要因で全てを説明するシンプルなストーリーには美しさを感じるかもしれません。だけれど、世界はそれほど単純ではありません。

世界の全てのものは、自然の法則に従っています。だけれど、世界は複雑さと偶然に満ちています。決定論的な要素を組み合わせた僕たちの世界は、非決定論的な世界でもあります。

「複雑系」な人が形成する社会も同様に「複雑系」の世界です。社会は、漸進的、集合的、偶然的に変化してきました。
人が意志の力で、理想的な社会へ計画的に進歩させてきたという歴史観は、近代西洋社会が築いた虚構であり、社会の実情に合っていません。

ただ、それは社会における人の意志を否定するものではありません。
むしろ、だからこそ「変異」を起こす人は、いつの時代も尊いのです。歴史を見れば、多くの「変異」は失敗に終わるし、次につながる「変異」も1つ1つは小さく、その人の人生だけでは、「変異」の結果がわからないことも多いでしょう。それでも、正しいと信じて挑戦する多くの人々の行動がつながり、積み重なりながら、社会は変化してきました。
複雑さと偶然に満ちた世界で「変異」を起こす人がいたから、今の社会があります。

●夜と霧/ヴィクトール・E・フランクル

生物の進化や社会の変化と同じように、人生も複雑系であるため、今後、科学が人や脳の理解を深めたとしても、その人が送る人生を記述できるようにはならないでしょう。
人生は複雑さと偶然で満ちており、それほど単純ではありません。

人生は、自らの意志で切り開いてきたものでも、努力の結果でもありません。遺伝子や環境、そして偶然の相互作用が積み重なった産物です。
人生に対して、僕たちが意図してできることは、それほど多くはありません。幸せなことも、不幸なことも、理由なく起こります。幸せな偶然に対して、自分の能力のおかげだと思うのは愚かだし、不幸な偶然に対して、ありもしない原因を探すのは不毛です。人生は、自分のおかげでもなければ、誰かや何かのせいでもありません。
僕たちにできるのは、人生で起こったことを受け入れることだけです。

それでも、僕は、自分で選ぶことを何よりも大切にしたいと思います。
人生において、正しい答えはありません。大事なことほど、誰にも正解はわかりません。だからこそ、自分が選ぶのです。
自由意志が無くても、「自分」がそれを選ぶことには変わりはありません。自分の生まれ持ったものと、これまで過ごしてきた人生が、それを選ぶのです。そして、いま、自分が選んだこれは、これからの人生の一片となり、いつかの自分が、また選ぶのです。
誰かに言われたからではなく、ちゃんと自分で選ぶことは、これまでの人生を受け入れることです。そして、これからの人生を受け入れるために、いま、自分が選ぶのです。

そして、選んだことに誠実でありたいと思います。
「選ぶ」とは、正しい答えを選ぶことではなく、選んだ答えで生きていくことです。結婚とは好きな人を選ぶことではなく、選んだ人を好きでいることです。それは、生きた証や人生の意味になると、僕は信じます。
「こんなはずじゃなかった」とか、「なんでこんなことが」と、やりきれなくなることが人生にはあるでしょう。そんなときに自分を支えてくれるのは、ちゃんと自分で人生を選んできたという想いです。選んだことに向き合ってきた、やるべきことはやってきたという想いです。それが、人生を受け入れることであり、人生に納得することだと、僕は信じます。

人の主体的な自由意志や人生の目的は、全て科学に否定されています。
ただ、それを受け入れることは、生きることを否定することではありません。むしろ、人の儚さや虚しさ、人生のたいしたことなさを受け入れて、それでも自分がやりたいようにやるというのが、ほんとうのことなのだと思います。人生の意味は問うものや与えられるものではなく、自分が決めればよいものであり、生き方なのだろうと思います。
僕は、自分で選び、選んだことに誠実に生きたいと思うし、それが僕にとって、正しく生きるということであるし、そうして生きたことに満足しながら人生の最期を迎えられると幸せだな、と思っています。


※参考図書

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