見出し画像

言葉についての短編集②


らしい 

「らしい」はなんでも、
くらべて言われる言葉だと思う。

たとえば「人間らしい」なら、
コンピュータとくらべて、とか、
オオカミとくらべて。
「あなたらしい」は、自分とくらべて、とか。
いつかの誰かとくらべて。

「らしい」は、いろんなものと並べられて、くらべられて
初めて見えてくる言葉であるような気がする。
意識せずに、なんとなく使われることもあると思うけど。

そういうときも、きっと無意識にくらべてる。
そんな視点で人の文章を読むことも面白い。

うちは、じぶんの発する「らしい」には慎重になってきた。
この「らしい」は、いったい何とくらべてるんだろう?と。



一人称

一人称って、少ない気がする。
「わたし」「あたし」「うち」「わたくし」
「ぼく」「おれ」「じぶん」「せっしゃ」「おのれ」
「われ」…他にもあるかもしれないが。

英語にいたっては「I」ひとつ。
限られたなかで、場面とじぶんの心情に照らして、
一番しっくりくるものを使うしかないね。

一人称って、
話のなかで使わざるを得なくて、使える言葉も決まってる。
もしかしたら、一人称の限定に
うちらの心は知らず知らず合わせていて、
人類全体が、限定的な性格にとどまっているのかな。
地球のどこかに、一人称がない社会も存在するのかな。

「さかなは、今日はシャワーだけでいいや。もう寝るね。」とか、
「うさぎは、カツ丼にしようかな。すみません、店員さん〜」
とか、じぶんの好きな動物とかだったら、面白いかもしれないけど、
それはもはや一人称じゃないような気もする。
日毎にちがう一人称とか使っても、楽しそうな気もするけど
そうなると毎日、違う人みたいになっちゃうのかな




それはそうと、
そもそも、自分をじぶんの名前で呼ぶっていうのも
「あり」のはずだけど、
なんで一人称を使っているんだっけ?

自分なりに考えてみた。一人称の積極的な意味。
何がしたくて、うちは一人称を使うのか?

それはきっと、関係性を求めるからだ、と心の声。
わたし、あなたと呼ぶことで、
うちは安心しているようだ。

「わたし」は「あなた」の存在を前提にした言葉だ。
「今ここ」を意識すれば、別の誰かにつながる。
そうなれば、「生」というあいまいな、得体の知れないものが、
たしかにあるという感じを
いつだって得られるのだ。きっと。

人類は生き残りのために、
人々の「生」を安定させようとして、
一人称を発明したのではないか?
なんてね、大袈裟なこと、思ったり。

2020.1.21 Mizuki

絵を描くのは楽しいですが、 やる気になるのは難しいです。 書くことも。 あなたが読んで、見てくださることが 背中を押してくれています。 いつもありがとう。