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10年ぶりの再訪から見えてきたもの

Twitterでいつも親しくやり取りさせて頂いている方から、2日間の高野山クーポンセットをお譲りいただき、ありがたくこの休みで滞在している。パンフレットを眺めながら、高野山は10年ぶりの再訪となるんだなと懐かしく思い返していた。

当時は東日本大震災が発生した直後で私は高校を卒業し大学入学を控えていた時期で、訪れる3月末頃に入学式を中止・授業は5月の連休明けというアナウンスがあったと思う。急遽、母からの提案で高野山に行ってみないかということで訪れたのだった。今回みたいなすっきり晴れた天気ではなく、どんよりとした天気で根本大塔の屋根が霞んでみえたことをよく覚えている。震災直後ということもあって人通りも途絶え、今年の4・5月の緊急事態宣言下のような閑散とした状態だった。私は東北に知り合いがいるわけでもないが、めまぐるしく変わる原発事故の状況や人々のとまどい慌てて関西以西や海外に移住したりする報道を見聞きしたりしていて、今まで良しと信じてきたものがガラガラと崩れていくようだった。当初、高校まではジャーナリスト、真実を伝える仕事がしたいという強い憧れがあったが(それが卒業した大学を選ぶ理由の一つだった)、母との旅行で高野山・そして京都の大徳寺を訪れご住職と話したりしているうちに、どんな混乱の中でも価値が変わらないものとは何だろうと考えていくようになった。ジャーナリストになりたいというのは、今思うと真実を伝えるのがかっこいいというイメージで走っていたところもあったし絶対実現させたいというこだわりは薄れていった。

2011年12月に南三陸町に有志でボランティアに訪れたのが転機だった。現地に、高野山真言宗の全国のお坊さんによる足湯隊が大勢来ており、偶々宿が同じだったこともあって私たちも一緒に行動することがあった。仮設住宅に赴いて被災者の方々の足を洗いながらお話を聴いたり、あいづちを打たれている姿を見ながら「人のために」を等身大で、かといって見返りを求めず楽しみながらされているのが印象的だった。

http://www.rq-center.net/utatsu/18651

足湯が被災支援には必要なのかと言われると断言できないかもしれないが、近くで活動している時に見ていると、強張っていた顏がほぐれたり、今まで蓋をして誰にも言えなかったあの時の記憶を涙ながら話している方も多くいらっしゃった。何か、次第に被災された方々の心に温かい灯が足湯隊から伝わっていったのかもしれない。なんとなくだが、その光景をみてこれから大学の専攻、中心に学びたいこととして「コミュニティデザイン」というものに惹かれ、2年近くの宮城・松島での活動に繋がっていくきっかけにもなった出来事だった。

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共感や記憶の共有。完全に当事者になりかわって理解することはできないけれど、自分の想像域を広げていくこと。ぽつぽつと住人の方々が心の内を話そうと思ったのも、足湯隊の方々の「記憶を共有して自分の心の中に活かす」思いが伝わったのではないか。人間は共感することができて、喜び悲しみ諸々の感情を当事者と追体験しながら、カウンター越しで「何かをする」「される」の関係を超えて(生きててよかった)という気持ちで日々を過ごすことができる。そんな灯をつける一人であったら、という思いがゼミ専攻を選ぶ理由でもあったし、人間として生きる上で大事にしている礎にもなっている(まだまだだが)

それが真言宗の開祖である弘法大師空海こと通称「お大師さん」が「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉、”いつ・どこにいても、お大師さんが共に見守りあなたと一緒に歩んでおられる”という意味にも繋がってくるのだな、と10年ぶりにまたコロナ禍という未曽有の状況の中で再訪しながらつらつら思う。


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