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あたたかい「共通認識」ー『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』を読んで

  寺社仏閣のお参りが好きというのもあり、神社の由緒は結構立ち止まってゆっくり読む性質だ。その中で存在が眉唾、といっては不謹慎かもしれないが判然としなかったのが本著でも中心的に論じられる神武天皇と神功皇后だ。江戸時代以前は全然スポットライトが当てられていなかったのに、明治時代になって突然表舞台に出てきたのはなぜなのか。日本神話の概略とともに、今に至る日本の権力構造を形作る思想も論じていて、引きこまれるように読んだ。(この出版不況の中、発刊1か月にして重版5版がかかったと著者が動画配信で語っていたのは驚く)

 本著を貫くテーマとしては「いかに、デマや混乱に陥らないような物語を未来に向かって紡いだらいいか」ということだ。主体はこの社会に生きる私たち一人ひとり。物語はイデオロギーと結びつき、時にはそれこそ、ある種国家が国民を従わせるよう「上手く」機能したがために、日本は敗戦し、原爆が投下されたというネガティブな面もある。ただ、先週閉会された国会で繰り広げられた各法案、問題の論点の動きを追っていくと、特に与党・可決に推し進めた側は本当にネット陰謀論丸出しの情けない、エビデンスはもちろん物語の魅力にも大いに欠けるものばかりだったと思い起こしていた。

 「物語」なんて古臭い、もうボーダーレスだし皆それぞれ好きなこと・信じたいこと思えて、表現できて幸せに暮らせればいいんじゃない?という声もあろう。別に「戦前」のように神武・神功皇后を尊敬しなさいというのではない。ちょっと個人的に「物語」というのは、この言葉自体にカタルシスというか、引力のように引っ張られてしまう感があるので「共通認識」がなんとなくしっくりくるため置き換えたい。2023年はじまって、というか特にこの10年、失われた共通認識は「ひとはどんな属性であろうと、どんな状況にあろうとその場にいてもいいんだ、と堂々と思えて、お互い補完することが当然のありかた。誰も不幸にならない」ことだと思う。正社員じゃないのが悪い、病気する方が悪い、・・・とどんどん「能無しで用無しだから生きてる意味ないよね」と切り捨て、「人に頼ってないで自分でスキルアップ!」の上手いキャッチフレーズのもとにそれこそ維新みたいな政党も存在感を増している。(自助してね、と政治家が言うのが自らの責務を放棄していると気づかないのだろうか)

 皮肉にも、今おそらく席巻しているのは「人に文句言う暇があったら自分でなんとかしろ。文句言うのは能力がない証でみっともない」という「共通認識」・および「物語」ではないかと思っている。特定の宗教、信仰がない分こういった「一見、ぱっと見よさげ」な言説がすんなり受け入れられていると思われる。辻田氏も本の中で、特定の物語が流布した背景を考えることが大切と指摘しているが、この「自助礼賛」的な認識が割と受け入れられているのは何なのか。「弱くなったら使い物にならない、今の生活ができなくなるへの恐怖」ではないだろうか。4割近くも非正規社員、新卒後正社員にならないとなかなか正規雇用は難しい、あるいは性犯罪は被害者が責めを負うべき考え方に警察や司法も、一部の市民の意識もそうなっている。実質的なセーフティネット、やり直しができる機会が見えないから暴力的な、排他的な物語が国会でも、「表現の自由戦士」のような一部の一般人にもみられるのだと考える。

 個人的には、神仏習合なお互いに補完しあう(本著では「中世キャンセル史観」と指摘されている対象)ありかたがしっくりくるし、テクノロジーが発達しても色あせないのではないかと思うし、プライベートだが、住んでいる地元をベースに活動しているコミュニティはこの、幸せになる共通認識を持っているのではないかと感じている。パーフェクトヒューマンになる必要はなく、できることをお互いにやり、シェアしあって補完して支えていく。得手不得手は恥ずべき事じゃないし、個性なんだという共通認識があらゆるところで広がってほしい、と読んだ後改めて強く感じた。

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