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『<公正>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』(朱喜哲著. 株式会社太郎次郎社エディタス )

 使いどころを間違えるとヤケドしそうな言葉というのがある。

 例えば、「正義」、「公正」。

 「正義」や「公正」と言われて、生まれてから一度もそんな言葉は聞いたことがないという人はたぶんいない。

 しかし、使いどころを間違えるとヤケドしそうだ。SNSなんかで不用意に使ってしまったら、炎上してしまいそうだ。

 一方で、「正義」や「公正」とはどういう意味ですか?と聞かれて、スラスラと答えられる人もたぶんそんなにいない。

 むしろ、これらの言葉は、例えば「正義とは何か」というだけで、一冊の本ができるくらいの概念である。スラスラ答える方がおかしいのかも知れない。

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 そんな取扱注意のワードたち。

 不用意に使わずにNGワードにして、一生使わずに生きていくことも一つの選択なのかもしれない。 

 でも、言葉のほんとうの意味が分からなくても、正しく使うことはできる、と本書はいう。
 また、言葉をプロフェッショナル級に使いこなしている人を見たら、自分ももしかしたら「使える」かもしれないし「使いたくなる」かもしれない。

 こんな正しいことばの使い方を、「仮免許」くらいまで乗りこなせるようになりましょう、というのが本書のねらいである。


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「正義」について。


 ここで一つ、本書は、日本語においてよく使われる「正義」についての用法を例示する。

 「それぞれに正義がある」

 「正義の反対は悪ではなく、別の正義だ」


 上記の用法は、「正義」ということばの正しい使い方ではない、というのが本書の立場だと思う。
 (ここを誤読していたとしたら、このあとに書くことはすべて間違っていることになるが、本noteは「読めていなくても堂々と語る」ことをコンセプトにしているので、気にせずに堂々と語る)。


 ここで、現れるのがジョン・ロールズ。

 彼は、「正義」と「善」を区別した。

 「善」とは、何を「良い」と思って何を「悪い」と思うかについての個々人の考え方や価値観をいう。
 ここには人それぞれ違いがあるし、文化や歴史が違えば、時に衝突し、抗争を招くこともある。

 「それぞれに善がある」
 「善の反対は悪ではなく、別の善だ」

 では、「正義」は「善」とは違うのか。

 違う。

 ロールズは、「正義」とは、「競合しうる善構想どうしを調停し、合意に至った状態において実現するものであり、そのための一連の手続である」と説明した。

 「競合しうる善構想同士を調停し、合意に至った状態」なのであるから、この合意がみんなに成立すれば、「人それぞれ」「別の正義」ということは生じない。
 なるほど、そうだとしたら、先ほどの用法は間違っているかもしれない。

「公正」について

 先ほどの「競合する善構想同士を調停する」つまり「正義」を実現するためには、その場が「公正な」場でなければならないと本書はいう。

 例えば、ある一部の者だけがやたら得をして、少数者の権利が一方的に抑圧されるのはおかしい。

 しかし、少数者の権利を全てもれなく取り入れようとする社会は、不安定になりがちである。多様性を尊重する社会は不安定だ。

 じゃあどうしたらいいのか。
 お互いにとって利益があるように、調整する必要がある。
 つまり「競合する善構想同士を調停し、合意に至る」必要がある。

 しかし、これはなかなか難しそうだ。

 「競合する善構想同士を調停し、合意に至る」ためには、その場の構成員は全員が、公正な負担をこなし、不公正な利益を得てはならないはずだ。
 つまり、全構成員がフェアに負担を負い、アンフェアに利益を得てはならないはずで、全構成員にはそうしなければならない責務があるはずである。

 以上より本書は、「公正」とは、「わたしたちが正義について合意するために、場に求められる条件であり、各人に課せられる責務である」と言う。

本書からの学び


 このような本書のいう「正義」や「公正」から、個人的に学んだことを2点ほどあげたい。

1つ目は、他者との合意を基本姿勢にしていること

2つ目は、思いやりや優しさとは違うこと 


 本書の正義が
 「それぞれに正義がある」
 「正義の反対は悪ではなく、別の正義だ」

 と違うのは、
 本書が他者を敵視あるいは分断するのではなく、うまく調停しようとしているということ。

 ここには、他者を理解する、他者と調停し、合意するという基本姿勢がある。これが1つ目。

 一方で、2つ目。
 本書のいう「正義」や「公正」は、思いやりや優しさという気持ちの問題とも違うということ。

 思いやりの心を育むというのは、上記の「正義」とは違う。
 誰にでも分け隔てなく優しくするというのは、上記の「公正」とは違う。

 本書は、「正義」や「公正」といった言葉について、個人の主観的側面の涵養を重視する傾向が、日本の道徳教育が陥りがちな罠だという。

 このことについて、本書の後半では「積極的無関心」という言葉が出てくる。
 「寛容」とも言い換えられる。

 これは、ざっくりいうと思いやりや配慮ではなく、利害関心には適度にブレーキを掛けて、いい感じでお互いを認め合いましょうと言うことだと思う。


重要なのは、公正な社会を構想するということは、「気のあう仲間」をつくってその輪を広げることとは根本的に異なる、ということです。公正な社会を構想することは、むしろ「仲間でも敵でもないひと」たちどうしが、どうやってともに生きていけるかを考えることでしょう。

朱喜哲. 〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 株式会社太郎次郎社エディタス. Kindle 版.


 本書は別の箇所で、「公正な社会の構想」について、皆で取り組む命がけの挑戦といっている。

 え、そんなの無理そう?

 でも、会話だけだったらできるかもしれない。

 「正義」や「公正」や「寛容」は、思いやりや優しさとは別の次元で、他者を認めること。そうだとしたら、ちょっと会話のバリエーションに変化をつけられそうな気がしませんか。
 まあ、いきなりカフェとかでなんの脈絡もなく「正義」とか「公正」とか言い出したら、ヤケドしそうですけどね笑。

 多少なりとも「正義」とか「公正」とかいう言葉を乗りこなしてみたくなったでしょうか。
 でも、事故りたくなかったら、本書をオススメします笑、そんな感じです。

 ということで、「今日一日を最高の一日に



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起床6:17

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